2016年1月17日・・・あれほど大きな石だったのに
さて、安息日・・・が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。マルコ16:1~4(1~8)
《人には出来ない》
人類は、遥か宇宙のかなたに宇宙船を飛ばし小さな惑星からそのチリを持ち帰り、6百メートルを超える塔を建て、巨大なマンションのような大船を海に浮かべて運航するという、結構大きな事業をも展開する。だが、死んだ人を生き返らせることは、人には出来ない。不治の病と言われた癌にも、次々と新しい、効果的な治療法を開発しているが、死の壁を破ることは不可能だ。今日・・・の聖書箇所は、十字架に立会い、アリマタヤのヨセフたちの葬りの様子を見守っていた婦人たちのその後三日目の早朝の行動である。彼女たちは、人々の憎悪と罵倒の中で無残な死を遂げられた主イエスに、せめてもの最後の手向けとして、遺骸の汚れを拭い、没薬などの香油を塗り、亜麻布を巻き変えるなど丁重な葬りを施そうと、夜明けを待ちかねて墓地に急いた。その姿は、イエスに対する彼女たちの愛と感謝の深かったことを示している。しかし彼女たちには、イエスを生き返らせる力はなく、死の事実を変更することは出来ない。彼女たちの出来ることは、間もなく腐敗し朽ち行く遺体だと承知した上で、「せめて出来ること」としての死に化粧の提供だけだった。それさえも墓を塞ぐ「あの大きな石」で中止せざるを得ない。問題に直面した際の人に出来ることは、このような気休めの、無くてもよい程度のことでしかない。人は、己の無力さを痛感してはじめて、全能の神に気づいて仰ぐ(Ⅱコリント4:7)。そして、神の復活の約束こそ希望であることに気づく(8:31)。
《しかし、神には出来る》
神は、彼女たちの死に化粧の計画を助けるために、墓の入り口の大石をどかされたのではない。主イエスが復活なさったことを宣言するためであり、墓の中が空っぽで復活が事実であることを証明するためのものであった。メシヤ(救世主)の業は、メシヤ殺害でとん挫したのではない。イエスの十字架の死は、人々の咎の許しを勝ち取り、勝利の復活に備えて第一歩に過ぎない。神はその全能の力をもって生と死の壁を打ち破られた。彼女たちが葬りのために購入した品の出費も無駄になったが、キリストは約束の通りに甦られた。死は、動かすことの出来ない、確定した事実の最たるものだ。その象徴が墓だ。死という現実を前にして、人はあきらめることしか出来ないと思い込む。娘の死の告げた使者は、それを聞いた父親に、人は「なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」(5:35)という。だが主は、「恐れないで、ただ信じていなさい」(5:36)と返された。私たちの主イエスには、死の壁はない。「不可能だ、絶望するしかない」とすぐ思い込み、あきらめの処置しか考えない私たちに、復活の主は死んだ少女に、「タリタ・クミ(少女よ、起きなさい)」と呼びかけてくださるのだ。キリストの居ます所に絶望の影はない。死と生の世界を隔てる墓の大きな石は、すでに転がされている。***************************