2016年1月24日・・・福音は聞いて信じるもの
マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。マルコ16:10~11(9~18)
《先ず罪人に》
墓に行った婦人たちは三人であったが、他の二人を差し置いて復活の主の最初の顕現に与ったのは、かつては七つもの悪霊に取り憑かれて異常な生活を送っていたマグダラのマリヤであった。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(2:17)と言われた主は、復活の後も、義人よりも罪人に、健康な人よりも病める者のより近くにいてくださる方だ。この復活の主の顕現に接することは、私たちが熱心に求めて会いに行くからではなく、主の側から会いに来られるから出来ることだ。主キリストの助けなしには生きて行けないような、惨めで恥の多い人に対してご自分を現される。それだけに主を愛することの深い人に、主はご自分を現されるのだ。次に主がご自分を現されたのは、ペテロやヨハネにではなく、エマオに帰ろうとしていた二人の弟子に対してであった。ひとりはクレオパという名だとルカは伝えているが、それ以外は不明の無名の弟子たちを選んで。主はご自分を現された。しかし以前の姿とは違った「別の姿」で現れたので、一緒に歩いて話をしていたのに気づかず、食事をしているうちにわかったという(ルカ24:31)。主は一目でそれとわかるような形ではなく、信じないのが当然のような形で、聖書のことばと聖霊の導きよってはじめて目が開かれ信仰に至るような仕方で近づかれる。復活の証人は立派な経歴の人とは限らない。むしろ無名の、軽んじられている者を、神は用いられる。聞く者は告げる者の肩書に捕らわれないことだ。