2016年2月7日・・・彼らは出て行って至る所で福音を宣べ伝えた
主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
マルコ16:19,20
マルコ福音書は、イエスが神の右の座に着かれ、出て行って福音を宣べ伝えた弟子たちのことばを確証されたという、意義深い文章で閉じられている。
《イエスは天に挙げられた》
復活の知らせを聞いても信じなかった弟子たちを、イエスは厳しく叱責された。しかし彼らを捨てず、その不信仰な弟子たちに世界宣教の大使命を託された(14、15節)。復活の後40日・・・、イエスは弟子たちにしばしば姿を現し、彼らに必要なすべてを話し終えて天に挙げられた(使徒1:9)。彼は復活の事実を示すだけでなく、私たちが知るべき事柄のすべてを教え終わって帰られたのだ。人がこの地上で生きて行くに必要な言葉は、聖書に完結している。後は、私たちが聖霊の助けによって読み取って行けばよい。イエスは地上での務めを完全に果たし終え、天の神の右の座に着かれた。私たちに背を向けて去ったのではない。父なる神の大権をすべて託され、イエスは神の国の王として私たちに向き直って着座しておられる。そして「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)と命じた方は、今その権威を行使して「彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものに」(20節)しておられる。「主イエス」(19節)という呼び方は福音書中ここだけで、神の国の王としての敬称だ。もはや天は遠い存在でも、閉ざされた所でもない。今、私たちに向かって開かれており、「天のおられるアバ父よ」と呼びかけることの出来る身近な所となっている。そこにます王キリストは、今も地上の私たちと一緒に働いておられるのだ。
《弟子たちは至る所に出て行った》
その主イエスに、復活の喜ばしい知らせを託された弟子たちは、「出て行って、至る所で福音を伝えた」という。彼らに説得力や社会的な地位、時間と余力があったのでもない。周囲に好意を持たれ歓迎されるという状況でもない。だが「彼らは出て行って」という姿勢は、キリスト教会の基本的姿勢となる。当初、エルサレムの一隅に集まって祈っていた弟子たちだが、聖霊の注ぎを受けて周囲に積極的に証しを開始した。しばらくはエルサレム近辺に止まっていたが、迫害によって一挙にユダヤ全土に広がり、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)の預言通りに広がった。福音は、信じる者を、「私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求め」(ロマ15:20)る、開拓者的な気概を持つ復活の証人に変える。私たちの主イエスは、この世界を創造された際、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)と、人に命じられた。私たちは、神の国の王キリストの下にすべてが従い、その祝福に与るようにと、福音伝道の使命を託されている。人が認めようと認めまいとキリストの主権は至る所に明らかに確立されている。み言葉には力があり、人の心に悔い改めと信仰、罪の許しと人格の変化を生み出す。私たちは神の同労者として伝道に勤しむ(Ⅱコリント6:1~4a)。