2016年2月14日・・・目を上げて最高の知恵を得よ
目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。イザヤ40:26(21~31)救いは、私たちが天国に行けるようにするだけではありません。私たちが最高に生かされ、喜びと感謝をもって歩み、私たちを造り救って下さった神の栄光をあらわすためです。この箇所を通して、最高の知恵の道がどんな道かを共に確かめましょう。
《イスラエルは主を見失ないその知恵は空しくなっていました》
神はイスラエルを選んで、彼らにご自身を特別にあらわして下さいました。しかし彼らは、主を捨てて、神でないものを神としたために、思考力が衰えていきました。一番大切な要素、真理の規準、本当の目的である創造主を無視したら、どんな愚かな判断になるでしょうか。神を第一にしないで見、考えることによって、思考力はそこなわれてしまいます。このようにして罪は、人の賜物、存在そのものを、無益にしてしまいます。「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:12)。私たちはどうでしょうか。《主は「高く見上げて、見よ」と告げられました》
主は、彼らに「天を仰がせ」、思い考える力を「正しく使う」ようにさせました。吹き寄せる風、空の変化、咲き乱れる花、渇ききった大地の中に、朝ごとに夕ごとに神が働いておられるのを私たちは見ることができます。人工のものは快適ではありますが、それは私たちの精神や霊に良い影響を与えないのです。さらに主は、「わたしを仰ぎ見て救われよ」と語りかけて下さいました。神はご自身の御子を救い主として地上に遣わすことを通して、私たちにご自身を示して下さいました。特に十字架を通して、人の罪と神の赦しを示して下さったのです。罪のないお方・死ぬ必要のない主ご自身が、罪人のために犠牲になられました。この最も正義に反する事を通して、主はすべての罪をご自身に受け止め、いのちの犠牲によって赦しと救いの道を開かれました。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」(イザヤ45:22)
《自分の思いと考えを主にささげる時、私たちの思考は完全にされます》
あなたの思い、また行動は、神に向けられているでしょうか。それとも神以外のものを優先しているでしょうか、それが「偶像」です。その偶像は、あなた自身でしょうか、あなたの仕事、自分の信念や美学、幸せ、栄誉でしょうか。主ご自身より大切なものができてしまっていたら、神を感じ、考える力を衰えさせてしまいます。しかし、主を第一にし、主に自分を思いと考えを従わせる時、私たちは、主が共におられ、祈りに答えて下さることを知ります。主が共にくびきを負って歩まれ、疲れても支えて下さることを体験します。そして、パウロがあかししたように、「どんな強風にあっても満ち足り」「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」(ピリピ4:11、13)ようにされます。ですから「神の国(御支配)と神の義(神の喜ばれること」を第一に求めましょう。