2016年3月20日・・・十字架につけろ
ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。ルカ23:23(13~25)
《イエスは罪のない方であった》
イエス・キリストが十字架刑に処せられたのは、彼が犯罪者であったからではない。「キリストは罪を犯したことが無く、その口に何の偽りも見出され」(Ⅰペテロ2:22)ない方である。人の問題点を見つけては蹴落として権力闘争の中を生き延びて来た総督ピラトに、「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども。私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。ヘロデとても同じです・・・この人は、死罪に当たることは、何一つしていません」と三度も言わせる義人であった(4、14~15、22節)。《人々はイエスを十字架に架けた》
罪なきイエスを十字架刑にしたのはなぜか。「ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。」(23節)。彼らとは「祭司長たちと指導者たちと民衆」(13節)で、「民衆」は選民イスラエルの民を指す。人々はそろって罪なき方を「十字架だ。十字架につけろ」(18、21、23節)と言った。その理由を考えて見よう。第一に、祭司長、律法学者たち。「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていた」(マタイ27:18)とあるが、彼らは、自分たちの問題点を指摘されると、悔い改めるどころか反発し、民の前で面子が潰されて激高し、民衆がイエス・キリスト側に傾くと嫉妬して、彼を否定し排除しようと躍起となったのである。パリサイ派の人たちも同じだった。私たちが彼らの立場にあったならどうか。素直に自分の誤りを認めて反省することは難しい。逆に問題を指摘した相手を恨み、何とか彼をやっつけようと、彼の問題点を見つけ出して失脚を図るような罪を持つ。
第二に、民衆で、彼らは毎日・・・「熱心にイエスの話に耳を傾けていたから」、指導者たちはイエスに手出しできなかったとある(19:47~48)。民はイエスに尊敬と愛を持っていた。ところが、彼らは心変わりしたのか、「十字架だ、十字架につけろ」と叫び、指導者たちと一緒に十字架のイエスを嘲っている(21、23、35、使徒3:17)。その場の流れでどちらにもつく、ご都合主義の無責任さを見る。不利な立場に立とうとも、真実を貫き自分の意見を変えない勇気と信念が、自分にあるのかを問われる。指導者たちから民衆まで、選民イスラエルは、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハネ1:11)と言われる対応で、イエスを十字架に架けたのである。
第三のピラト。彼は当時の最も優れた公正な法律、ローマ法の番人であった。だが、その責任を放棄し、イスラエルの指導者と民の意向に沿って、イエスを十字架刑にすることを命じた。自分の身の安泰を図っての政治的判断で、正義を捻じ曲げてしまった。何が正しいのかを知りながら、わが身の安全と利害を第一とする姿勢は、私たちと無縁だろうか。
それらが、「主は、私たちのすべての咎を彼(メシヤ)に負わせた」(イザヤ53:6)との預言を成就させ、私たちは癒されたのである(Ⅰペテロ2:21~24)。