2016年4月3日・・・復活後の大漁の奇蹟
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。ヨハネ21:5、6(1~14)
「その現された次第はこうであった(このようにご自分を現された)」(1節)とある。復活の確かさを示すためではなく、弟子たちにどのように関わってくださる方であるかを、この記事は私たちに教えてくれる。それを学ぼう。
《主は職場に現れ》
弟子たちは、主イエスの十字架や復活という衝撃的な事件を経験したエルサレムから、故郷ガリラヤに帰り普段の生活に戻った。そして久しぶりに夜の漁にとガリラヤ湖に舟をこぎ出した。弟子の立場を放棄して世俗の仕事に戻ったわけではない。当時のユダヤ教の教師は、手に職をもって働きつつ、聖書を教えていた。弟子たちもイエスを待つ間に漁に出かけたのであろう。その世俗の、普段の生活のただ中に、復活の主はご自分を現されたのである。主イエスは、教会の礼拝や信仰者の交わりの中だけではなく、職場や学校また家庭の、ありふれた生活の中にご自分の存在を示して、具体的な、実際上の助けを私たちにお与えくださる。
《問題に指示の言葉を》
「その夜は何もとれなかった」(3節)弟子たちに、「子どもたちよ」と呼びかけ、「食べる物(獲物の魚)がありませんね」(5節)と声を掛けられた。一晩中網を入れても一匹も獲れず、失意と疲労の中で焦っている弟子たちに、親しい愛情と労わりを込めて、主イエスは私たちに関わってくださる。主は「舟の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます」(6節)と言われた。漁師としての自負のある彼らであったが、その時は「どうせ獲れはしないだろうが、これを最後にしてみるか」と、期待もなく網を入れてみたのだろう。そして153匹という大漁に驚き、以前の経験をはっと思い出し(ルカ5:6)、ヨハネは「主です」と言い、ペテロは復活の主に一刻も早く行こうと湖に飛び込んだ。嬉しい光景だ。
《朝食を備えて》
さらに驚くべきことに、栄光の主、復活のいのちの主が、小枝を集め、煙の中にお顔を近づけて息を吹きかけて焚火を起こし、魚を焼きパンを準備して、弟子たちに兆直をサービスなさったのである。私たちの主は、それに弟子たちの獲った魚をもくわえてその労を労い、収穫を一緒に喜んでくださった。ヨハネはその時の様子を生き生きと描いて、復活の主は天の高みにおられるだけはない、失意と疲労の中にある私たちに、「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」と声をかけ、素直に応じる者に解決の言葉をお与えになる。そしてその収穫を一緒に喜んでくださる方なのだ。焦げた魚を一緒に食し、黒焦げの魚の皮を唇について一緒に談笑なさる復活の主の御姿に、私たちは嬉しくならざるを得ない。
《網は破れず》
この大漁の出来事は、「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4:19、ルカ5:10)との召命に立ち上がろうとしている弟子たちの将来を示すものであった。網は教会を意味するものとすれば、教会の主を仰ぐ人々の群れは、どれほど多くとも、多様な人々であろうと、そこに一致と協力があり、教会は破れることなく進展することを教えてくれる。私たちも主の命に従って、網を下ろそう。