2016年4月10日・・・初めにことばがあった
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにあった。ヨハネ1:1、2(1~13)
四つの福音書の中で最後に記されたヨハネ伝は、神であられるキリストを強調し、この方を信じて永遠のいのちを得ることを目標にかかげます。イエス・キリストは、一体どんなお方なのか、この箇所から知りましょう。
<第一に、キリストは、世界を創造された「ことば」です(1~3節)>14,17節で明らかにされるように「ことば」は、イエス・キリストを指しています。見えない内側に浮かんだ考えや思いが、外にあらわれ、他の人に知らせ、働きかけるもの・・・それが「ことば」です。見えない神のもとから、私たちが知ることができるように、現れて下さった方という意味で、イエス・キリストはまさに「ことば」であられます。キリストは、神のことばと一つであり、神のことばを成就するために来られました。その方は神であられ、初めから存在しておられ(コロ1:17)、初めから神と共におられました(ヨハネ17:24,55)。すべてのものを創造され、すべてのものを保っておられる方です(コロ1:16~17)。
<第二に、キリストは、やみに打ち勝つ「いのち、光」です(4~5節)>キリストは、まことのいのちをもっておられます。創造主として、私たちを生きるものとして造られました。私たちのいのちは、神からいただいたものです。神との結びつきを罪によって失ったために、私たちのいのちは汚れ、朽ちるものとなってしまいました。しかし、この方のいのちを結びつく時、私たちも永遠に生きることができるようにされるのです。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」(4:19)。
「わたしは、世の光です・・・」(8:12)。光には、三つの働き(照らして見えるようにする/暖めていのちを育む/汚れをきよめる)があります。キリストは、私たちのたましいを照らし導き、育み、聖めて下さいます。光はやみに打ち勝ちます。「打ち勝つ」は、相手に勝利して「自分のものとして支配する」ことを意味します。罪のやみに支配されている私たちを、愛と真実と犠牲によってご自身の光のもとに置いて下さるのです。
<第三に、キリストは、神の子どもとされる特権を下さる方です(6~13節)>キリストはご自分の民に拒まれた(11節)。しかし信じた人々は神の子どもとされる(12節)。ここにキリストの救いの道があかしされています。キリストは聖書の約束の通りに、十字架でご自身のいのちを犠牲にされました。それは、全人類を罪から救い出すための「代価」でした。そしてキリストは朽ちないいのちによみがえって下さいました。罪と死に打ち勝った永遠のいのちをキリストはご自身ごと信じる者に差し出しておられます。キリストと信じる者は、「神の子ども」とされます。キリストと同じ特権、天国の嗣業と王位にキリストと共にあずかるのです。