2016年5月1日・・・天の御父主の祈り(1)
だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。
マタイ6:9
《主の教えられた祈り》
この祈りは、弟子に祈りを尋ねられたイエスが、日・・・頃のご自分の祈りを教えてくださったものだ(ルカ11:1)。そして、私たちの日常生活の中で失われているものを取り戻すものとも言える。私たちの口から自然と出る祈りの言葉は、「どうか私の名が良い評判となり、私を苦しめる問題や人間が取り除かれ、多くの人が私を良く評価し協力してくれるように。」だ。「御名があがめられますように、みこころが天で行われるように地でも行われますように」などと自分から祈ることはない。だが、私たちは、「神のかたち」に造られた高貴な存在だ。自分の暮らしぶり、栄誉、健康等しか浮かばない願い事は、思い煩いに過ぎない。空の鳥や野のゆりでさえ、衣食住に囚われていないではないか。人は、神の国とその義、神との交わりの中でみ旨に沿う生き方を求めることだ。これを先ず求めるなら、暮らしのことはすべて与えられる。そうイエスは保証された(6:33)。
《私たちの父への祈り》
私たちは今、イエスと一緒に「アバ父よ」と神に呼びかけることが許されている。御子イエスの十字架の贖いにより、神に立ち返る道が開かれ、神を父と呼ぶことの出来る息子・娘とされている。あの放蕩息子の帰還を喜び迎えた父親のように、神は私たちに走り寄って抱きかかえ、接吻して迎え入れてくださった、とイエスは紹介された(ルカ15:20)。神は私たちの父として、私たちの求める前から必要のすべてをご存じだ(8節)。病人は自分の病の原因を知らず、何を求めてよいかわからなくとも、医師は診断し適切な治療を施す。そのように、父は子の見当はずれの訴えにも、適切に対応なさる。中風患者の友人たちは癒しを願ったが、イエスは彼に必要な罪の許しをお与えになった(マルコ2:5)。父は子の必要を知っているが、子との交わりを喜び、その訴えの言葉を求めるように、父の神は子の私たちの求めの祈りを喜び、そして適切に応じてくださる。父に求めて祈ろう。
《天にいます方への祈り》
天は、神のおられる所、神の権威と力と威光を指す。また地のすべてを見通し支配する場所だ。すべては天において定まる。だから、その天の主が、父として私たちを訪れ、私たちの祈りにお応えくださるのだ。私たちにとっ問題となるものは何一つない(ロマ8:31)。万事が明るい。また天の父は隠れたところで、私たちの隠れたことをも見ておられる方だ(1~6節)。万事をお見通しの神を信じる者は、見栄に生きる道を捨てる。私たちが天に目を向ける時、一生を他人が自分をどう見るかを基準に生活し、本当の自分になれない見栄の生き方から離れ、神の目に喜ばれる真実の自己を生きるように促される。主の祈りは、私たちをそのような本来の人としての生き方に押し出してくれる。