2016年5月8日・・・御名があがめられますように主の祈り(2)
御名があがめられますように。
マタイ6:9
主の祈りの前半は、御名が崇められ、御国が到来し、みこころが地に行われることの三つの求め、後半が日・・・毎の糧の付与、罪の許し、誘惑からの保護の三つの求めからなっている。この後半を可能にする前半の祈りの第一の祈りを学ぶ。
《祈りの前半と後半の関係》
主の祈りの前半の課題は、私たちの口から自然に出て来る内容の祈りではないが、後半の日・・・毎の糧や誘惑からの保護は、私たちの日常生活の中で誰もが経験する切実な課題だ。そんな問題山積する激流のような世界を渡るに必要な「いのち綱、つり橋」を架けるため、主イエスはこの祈りで教えてくださった。向こう岸には「御名があがめられる」という橋脚、こちらの岸辺には「御国が到来する」という橋脚がそれぞれ築かれ、その間に「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」との橋が架けられる。この橋の上を、私たちは日毎の糧や相互の許し合い、また誘惑からの守り等を祈りつつ、激流の海峡を渡り行くのだ。先ずは土台を据えて橋を架け、その上を「みこころが地でも行われますように」を合言葉に、祈りつつ渡るのである。祈りにお応えくださる私たちの父に求めることから万事を始めよう。「求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:24)
《御名とは》
御名とは「神ご自身」のことを指し、イエスが「私たちの天の父」と紹介された神である。つまり私たちの神は、ご自分のひとり子の名誉やいのちを犠牲にしても、私たちを愛する子と見做して救出しようとなさる方だ。あの放蕩息子の譬え(ルカ15章)で自分に背いて家出し、放蕩三昧の末、零落した姿で帰って来た息子を、大喜びで迎い入れた父が、私たちの神である。いやその前に、私たちをご自分のかたちに似た者として創造なさり、大きな期待と愛情をもってこの世に産んでくださった父なのだ(創世記1:26、エゼキエル16:6)。決して見放さず、私たちの身を案じ、その罪の処理に苦悩し、悩んでも放り出さずに、回復の道を整えて待ち受けてくださる方だ(ホセア11:8、Ⅱペテロ3:9)。
《あがめられますように》
原文は「聖別されますように」で、神は元々聖なる方で、汚れがあるわけではない。名を汚すとは、「盗みをし、私の神の御名を汚す」(箴言30:9)、「彼がモレクに子どもを与え、そのためわたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を汚すから」(レビ20:3)とあるように、神の教えに背むき、不正や背教に走ることを意味する。「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」(エペソ5:1)。私たちクリスチャンが、神を父と仰ぎ、常に、どんな状況に置かれても、神の子どもとしての心を持ち、父の神への絶対的信頼と従順が、神を聖として崇めることにほかならない。私たちの神は、私たちに「アバ・父」の神として関わってくださる。私たちは感謝をもって、喜んでこの父に従い行こう。何よりもこの方の意向を大事に、子としての心を失わずに(ガラテヤ4:5、Ⅰヨハネ3:1~2)。