2016年5月15日・・・御国の到来を祈る主の祈り(3)
御国が来ますように。
マタイ6:10
正確には「あなた(天の父)の御国が来ますように。」との祈願だ。キリスト教信仰は、心や観念の領域に止まらず、政治的な分野にも及ぶ。イエスは新しい国家の成立とこの世界への拡大を祈れと命じられた。我が家の平和と繁栄を祈るのでなく、我が家が、神の国の統治下に置かれるように願えと言う。
《神の国とは》
「御国が来ますように」の父なる神の国、その支配下にある国とは、どんな所か。ロシヤの作家ドフトエフスキーは、「罪と罰」の中で、極貧の一家を助けようと売春婦となった娘のことを思うと飲まずにはおられず、そのわずかな金を飲み代にし酔いつぶれてわめく父親マルメ-ラドフのセリフで、神の国を「自分で自分がどうしようもないと思う人々すべてに、深い慰めと希望を与える国、恵みと憐れみの父が支配なさる国、キリストに見られる神の愛の支配するところ」と紹介している。神の国到来への期待は、失意に打ちのめされている者に希望を与え、自暴自棄に陥りかける者を慰め、励まし、新たにし、私たちを主の御国に向かって歩む人間に作り変える。
《教会は神の国か》
イエスは、「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(マタイ12:28)とも言われた。神の国はその姿を一部現している。人はそれを信仰者の共同体、教会に期待する。しかし、現実の教会は、争いのない、愛と平和に満ちた世界とは程遠く、種々の人の醜い姿を晒す。分裂や非難が飛び交い、憎しみや恨み、競争心や妬みや嫉妬があり、多くの者が去って行く。だが神の国を祈る者は、教会でこそ顕わになる自分たちの醜さ、愚かさに向き合い、直視し、解決をはかる。パウロは、彼を非難し排斥を図る信徒たちに、「神の国はことばにではなく、力にある」(Ⅰコリント4:20)と言い、神の国到来を願う者に相応しい振る舞いを見せて欲しいと言う。パウロは、「十字架のことばは神の力」(Ⅰコリント1:18)だと言い、御子キリストが和解と平和と愛と希望が支配する王国を形成しようと、人のそしり一切をご自分の身に引き受け、十字架の死と葬りに赴かれた生き方に、十字架の福音は信じる者を押し出す力だと宣言している。悔い改めて福音を信じる者は、すでの神の国の支配下にあって、その力を味わっているのだ(ガラテヤ2:20)。
《御国到来を祈る》
多くの者は神の国の到来を望まない。神の国の祝宴の招待に誰も素直に応じようとはしない(ルカ14:15~24、マタイ22:2~14)。金持ちなど、世的な面で手放せないモノを持つ者は、神の国の扉が開かれていても入ろうとはしない(マルコ10:25)。神の国に最もふさわしい心は、自分の罪を知る心だ。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)とあるが、神の国への入国を願うことは、自分の罪に気づいてキリストの故の許しを乞い、神の恵みのご支配の中に置いてくださいと願うことにほかならない。聖書は、罪の結果、神の支配の中から追放された人間が、キリストの許しによって再び神の国の住民とされるいきさつを記したものだ。聖書の最後の言葉が「アーメン。主イエスよ。来てください。」との祈りの言葉でそれを証ししている(黙示22:17)。