2016年5月22日・・・神のみ旨の実現主の祈り(4)
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
マタイ6:10
《神のみこころは今も地に》
「みこころが地でも行われるように」との祈りは、自分の欲するものを求める祈りではなく、神の欲するものを自分もまた欲することが出来るようにと、自分を訓練する祈りだ。こう祈ることで、自分の欲望を満たすことこそ最上のことだとするこの世の生き方に別れを告げる。神は、悪の力さえも用いてご自身の計画を進められる。ヤコブの子ヨセフを、彼の兄たちは奴隷に売り飛した。後にエジプトの宰相となったヨセフは、再会した兄弟たちに、「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50:20、参照45:7~8)と述べ、妬みと殺意から始まった事件を、神がご自分の民を守るためのみこころによる業と語っている。クリスチャンは、自分に関わるどのような事も、愛の神のみこころによってのことであり、最後にはすべては良くなると信じる(ロマ8:28)。神は今もみこころを行使しておられる。
《主イエスは神のみこころそのもの》
主イエスは、「わたしが天から下って来たのは・・・わたしを遣わした方のみこころを行うため」(ヨハネ6:38)と言い、「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4:34)とも言われた。御子は、父の神のみこころを行うことがご馳走を喜び楽しむようなものだと言われた。たとえ、ご自分の思いに反することでも、父のみこころを優先なさった(マタイ26:42)。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。」(ヨハネ6:40)とある。イエス・キリストこそが神のみこころのままに行動され、彼の生涯、十字架と復活に神のみこころがすべて表現されている(ヨハネ14:9)。
《神のみこころを祈る》
私たちクリスチャンは、教会に集って神を賛美し、聖書を学んでアーメンという。だが、家に戻り職場に出れば、世間一般の常識で物事を判断し行動する。そこでは、神は、自分がどのように判断しどう行動することを望んでおられるのかなどを忘れている。私たちは、神を意識しその言葉を信じてご意志に従おうとする自分と、周囲の人々の基準に合わせ神はいないかのような生き方をする自分とがある。私たちは、「みこころが地でも行われるように」と祈ることで、自分と自分の生活すべてを父なる神の御手に委ねて行く。私たちが神のみこころを実践するのではない。「地でも行われる」のは神ご自身だ。その神に、私たちのすべてを託して、マリヤのように「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と、神のみこころの実現を願う。私たちも、あのヨセフのように、神の栄光の業を自分の生涯の中に味わいたい。そして私たちも参与するように招かれているのだ。「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日・・・によみがえらせることです」(ヨハネ6:39)との宣教の業に。