2016年5月29日・・・日ごとの糧を祈る主の祈り(5)
私たちの日・・・ごとの糧をきょうもお与えください。マタイ6:11
《糧のための祈り》
神は私たちの弱さ愚かさを承知しておられ、主イエスは先ずパンのために祈れと言われた。私たちの生活は、真理や愛また正義などの霊的精神的な面だけでなく、食べて着て寝るという、特に取り上げるほどのこともない小さな事柄で占められている。だが、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられ」(8節)、日・・・常の小さな必要を喜んで満たしてくださる。イエスは、ご自分で飢えとその際の誘惑の激しさを経験なさり(4:4)、空腹となった群衆を気遣い給食を提供された(15:32以下)。旧約聖書イザヤも、メシヤを、飢えた貧しい人々に食事を提供なさる方だと紹介している(55:1)。人は往々にして食いはぐれを心配するあまり、貯め込んだ倉庫をいのちと勘違いする愚かな農園主(ルカ12:16~21)や、哀れな隣人への同情を欠く無慈悲な金持ち(同16:19~26)になりかねない。人はこの祈りに励むことで、生きるのはモノによってではなく、生かそうとしておられる神の御旨によってであると知る(4:4)。神が生かそうと、日々の必要を賜るのだと知る。
《日・・・ごとの糧》
私たちは、来週の糧のために祈るのではない。10年後20年後も食いはぐれないようにとも祈らない。「日・・・ごとの糧」とは、「その日の必要に間に合うもの、その日に十分なもの」を意味する。それ以上を求めることは、自分たちを生かしておられる神のみ旨と恵みの業を信頼していないことだ。今日を満たしておられる神が、明日をもお支えくださることと信じているなら、その日の十分なもので満足する。シナイの荒野で40年、イスラエルの民は、毎朝その日一日の必要な糧、マナを集めて食した。余分なマナを神は腐らせた(出エジプト16:26)。集めたマナが民を生かすのではない、神がマナを与えて民を養っておられるのだ(詩篇104:27、28)。神が共におられて満たしてくださるなら、何の心配もない。むしろ、モノの溢れた消費文化のただ中で、「私たちはこれで十分です」とわきまえる知恵を必要としている(箴言30:7~9)。
《私たちの糧》
ここで祈るのは、「私たちの糧」についてだ。「私の」ではなく、「私たち」のである。私たちはひとりで生きていて、ひとりで食べるのではない。私たちは信仰の友や、教会の仲間たちと一緒に手を携え合って人生の旅を続ける。そしてその旅路には、人間の罪によって引き起こされた貧困と欠乏とが常にある。私たちは、自分一人の必要を祈るだけではない。教会の兄弟たちの必要や、社会の隣人たちの欠乏を覚えて、「私たちの必要な糧を、隣人たちの空腹の満たしを」と祈る。初代教会は共に生きた(使徒4:34,35)。貧しい隣人を忘れた者は、神の裁きを受けることを承知しておこう(25:32~46)。教会の必要にも思いをはせて、神に祈り求めよう。この祈りは、私たちの関心を、飢えている隣人たちや、助けを必要としている高齢者や子どもたちの状況にも目を向けさせる。