2016年7月3日・・・負い目の許しを祈る主の祈り(6)
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。マタイ6:12
《私たちは負債ある身》
日・・・ごとの糧を求めて祈り、必要な衣食住が与えられたら、私たちは何を次に祈るか。事業の成功、健康、周囲からの良い評価などか。ところがイエスは、罪の赦しを祈れと教えられた。肉体のための食物も必要で大事だが、それ以上に、自分の罪の赦しを願う、それが人間の生活の基盤だと言われる。神によって創られた人間が、神が期待しておられるような生き方をせず、不義理を重ねたことを、負い目、負債と呼ばれている。神の戒めに違反していなくとも、なすべきことをせずにいることも含む。ひどい言葉や心無い拒絶で人を傷つけるだけでなく、誰からも構われず、支援を必要とし、絶望している人に、言葉もかけず、関心も持たず、何もせず(25:42~46)、強盗に襲われて傷ついた旅人のそばを素知らぬ顔で通り過ぎた祭司レビ人(ルカ10:31、32)のように、自己保身や無関心の罪を重ねて来なかったか。それは神の律法の重大な違反で(22:39)、人は皆、罪人、負債を持つ身だと言わざるを得ない(ロマ3:23)。
《赦し合う必要》
しかし、自分が許される必要のある罪人だと自覚する人は少ない。「私は正しい、間違っていない」と主張し、自分の罪を認めない。正義感を振り回して他人の悪口を言い、周囲と争い、戦争も始める。私たちは、主イエスのたとえの中の取税人のように己の罪深さに気付いて胸を打ちたたき、神の憐れみを請い、許しを求める者でありたい(ルカ18:13)。罪は負債と呼ばれ、返さなければならない借金のようなものだと言う。パリサイ人は神礼拝を大切に守り、聖書を熱心に学び、慈善事業にも協力したが、「赦し」はなかった。赦しのない世界は、互いに目を光らせ合い、すきを窺っているようなもので、いわばこの世の地獄とも言える。主イエスは、私たちがそんな赦しのない世界に陥らないようにと、この「私たちの負いめをお赦しください。」との祈りを教えてくださった。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに許し合いなさい。」(エペソ4:32)。互いが赦し合うことが生きることだ。
《赦せる根拠》
憎しみは人を腐らせ、赦しは人を生かす。だが許すことは容易ではない。イエスは、私たちが赦し合うために、自分たちが神に莫大な負債を許されている存在であることを教えようと、1万タラント(6千億円)の負債を許された男のたとえを話された(マタイ18:21以下)。主人に負債を返すには、家屋敷はもちろん家族全員を奴隷に売っても金の工面が出来ない男を、主人は可愛そうに思って許して上げた。ところが、無罪放免となった彼は、百万円を貸していた知人に出会い、その金を返せと迫り、哀願する相手の声に耳を貸さず、訴え出て牢にぶち込んだと言う。彼は、自分が6千億円もの膨大な負債を許されている者であることを忘れていたからだ。私たちは御子の犠牲によって許されている(ルカ23:34)。この十字架の愛に赦されて、赦す者となれるように祈ろう。