2016年7月24日・・・サマリヤであかしされた主の計画
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。ヨハネ4:23(1〜42)
弟子たちは、イエス様があえてサマリヤを通られ、人目を避ける女性にあえて話しかけられた事の意味を、その時は理解できませんでした。しかし、後になってこの働きが、神の確かな御計画の内にあったことを知り、ここにあかししています。神様のご計画と導きが、自分にとっても間違いないことを確信しましょう。
<第一に、主の御計画と導きは確かです(3節)>ユダヤ人と不和であったサマリヤ人の地は、「通って行かなければならなかった」のです。それは、やがて福音が、エルサレムから始まってユダヤとサマリヤの全土に伝えられる主の御計画のために、今この時、イエス様ご自身によってサマリヤに福音の種を蒔いておくべき時でした。昼間に井戸に水を汲みに来たサマリヤ人の女性に主は語りかけ、それが伝道の端緒になったのです。身持ちが悪く、信仰とは関わりないと見えた女性が、主を知り、主に用いられるために選ばれていました。同様に私たちも、主の導きを求めて祈る時、予想を越える不思議な導きの中で、主のご計画の確かさを知ることができます。
<第二に、新しい礼拝が始まる時が来ました(23節)>イエス様は彼女に、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません・・・」(13〜14)と告げます。興味を持った彼女に、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言う中で、彼女の喝いている状況を明らかにされました。彼女は何度も今度こそはと努力しましたが、なお満足できないでいました。私たちも同じです。人の努力は一時的な喜びしかもたらさず、やがて挫折し一層の渇きとなってしまいます。真の必要は、神にしか、神を礼拝することによってしか得られず、しかも「霊とまことにをもって献げる礼拝」である必要があります。きよい生きた霊、神に喜ばれる真実を、罪に支配された人間がどうして献げることができましょうか。しかし世界中のどこでもこの生きた礼拝がささげられる時が来ようとしていると主は宣言されました(23〜24節)。これこそが、すべての人の必要を満たす礼拝です。
<第三に、約束の救い主が目の前に来られました(26節)>「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています」との期待に、イエス様は「あなたと話しているこのわたしがそれです」と答えました。彼女は心打たれ、この重大な喜ばしい知らせを急いで町の人たちに伝えます。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか」。彼女のあかしを通して大勢の人がイエス様を信じ(39〜42)、さらに多くのサマリヤ人が、自分でイエス様に会って信じます。やがてイエス様は、聖書の預言の通りに十字架にかかり、三日・・・目によみがえられます(イザヤ53:10〜11)。こうして罪の赦しと永遠のいのちが、この方を信じる信仰を通して与えられました。尽きない祝福が、キリストによって築かれた教会の礼拝を通してもたらされています。