2016年7月31日・・・聖書の教える信仰
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。へブル11:1
私たちの教会は、聖書を誤りのない神のことばと知的に承認するだけでなく、私たちへの神の指示書とも受け止め、全面的に聞き従うことが信仰だと理解している。冒頭の言葉は、「信仰とは、神が私に約束なさったがどんなに実現不可能に思えても、必ず実現すると確信して歩むこと」と定義している。神の約束こそが第一だが、その約束の成就を保証し、証拠となるのが信仰だと言う。その信仰を再考する。
《信仰は神の言葉に始まる》
神が保障なさる「望んでいる事がら」とは、信仰者への神の約束を指す。神は、言葉で天地創造をなさったように(詩篇33:6~9)、神がアブラハムに仰せられた約束に、彼が応じたことでイスラエルの歴史が始まった(創世記12:1)。ノアへの洪水の予告と箱舟による救済の約束で、彼は晴天の丘の上で巨大な船を造り始めた。私たちの都合や考えからではなく、神の御旨を求めて聴いて従おうとするところに、神は新事態を創造してくださる。神の言葉は、神からの使者のように使命を果たすものだ(イザヤ55:10~11)。先ずは神の言葉(キリストの福音)を聞くことを開始しよう(ロマ10:17)。
《信仰は行動を促す》
神の言葉は生きていて、私たちを行動に進ませる。聖書を読み、説教を聞いただけで終わっては、種蒔きの譬えの道端、岩地、いばらの地のようなもの、実を結ばない。聞いて理解し受け入れ、従うことで、六十倍百倍の実を結ぶ(マルコ4:20)。「聞く」という聖書の言葉は「聞いて従う」の意味だ。列挙されている旧約の信仰の偉人たちは、神の言葉を聞いてすぐ「これに従い・・・出て行きました」(8節)とあるように行動に移している。これが「信仰によって」の意味するところだ。聞いても聞かず(マタイ13:14)、聞いて理解したとしても実行しない者は愚か者だ(マタイ7:26)。聞いたなら、喜んで自分の今の道から方向を転換し、神に従う者となろう。神の言葉に従うに資格はいらない。遊女ラハブもその恵みに与った。大事なことは神の言葉に率直に従うことだ(31節)。
《信仰は現状に抗するもの》
神の約束が人の期待したように成就するなら、信仰は容易だ。だが、約束の達成を望めず、信じ従って来たことが無意味にしか考えられない事態の中で、信仰は試される。どんな状況にも抗して、神は求める者に報いてくださる方だと、なお信頼するのが信仰だ(6節)。信仰は、目の前の現実だけで神の答えのすべてとは考えず、それらもまた神の意の中での展開に過ぎず、神の時が来れば完成すると信じ、今の課題に誠実に取り組む。信仰の祖父たちは、約束の地で寄留者として天幕生活を送っていただけでない。地上は一時と心得、天国を最終目的地としていた(9、13~16節)。イザヤは隆盛を極めるアッスリヤ帝国の勢力下にあって、「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:8)と、歴史を貫く神の言葉の強靭な活動を保証した。豊かないのちで私たちを満たす神の言葉キリストに信頼して歩もう(ヨハネ10:10)。