2016年8月21日・・・よくなりたいか、ベテスダの池での救い
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」ヨハネ5:6(1〜18)再び、祭りでエルサレムに上られたイエス様は、ベテスダの池に伏せっていた一人の男性に声をかけ、神の救いの恵みをあらわして下さいました。イエス様が彼にかけられた三つのことばに注目し、私たちもイエス様の語りかけを通して、主を知りましょう。
《第一に,すべてをご存じで「なおりたいか」と問いかけられました(5〜7節)》
水面が動いた時に、最初に水に入ることのできた人がいやされると言われていたベテスダの池に、大勢の病人が回復を願って集まっていました。元気になって、ここから出られる希望は、先に水に入るかどうかにかかっているとされていました。他に先んじて勝者にならなければ、抜け出せないという状況は、競争社会の縮図でした。主から「なおりたいか」と問われても、男性は、自分を池に入れてくれる人がいないと希望のない答えしかできませんでした。しかし、主の厳しい問い掛けは、私たちを現実に向き会わせるための語りかけです。つらくとも、主の語りかけをすなおに受けましょう。それが恵みの始まりですから(申命32:39)。《第二に、主のみことばは、信仰を通して力ある働きをします(8〜13節)》
「イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した・・・」(8〜9節)。主のみことばは、彼の内に信仰を呼び覚まし、その信仰を通して主のことばの通りに、彼は立ち上がり床をたたんで歩き出しました。十字架の福音は、罪の中に留まるしかないとあきらめた人に、信仰を呼び覚まし、約束の救いをもたらします。しかし一方で、彼は支配者の敵意の対象になりました。いただいた主の恵みを、厳しく問いただされ、否定するようにと脅されます。私たちも主の恵みをいただこうとする時、反対を受けるでしょう。恵みの主のもとにしっかり留まりましょう。《第三に、霊肉共に正しくなるように導いて下さいました(14〜18節)》
「その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません・・・(14節)。もし彼が、病をいやされたところで満足してしまったら、罪の生活は正されません。救いの目的は、肉体だけ元気にされることではないのです。霊肉共に正しくされ、神との幸いな関係の内に歩み出し、創造された本来の目的である神の栄光をあらわす者になっていきます。神の前の健康は、罪に勝利する道を歩み出して始まります。「もう罪を冒してはならない」・・・病を厭い、神と自分をのろい、自分をそこなってきた彼でした。恵みをいただきながら、この罪を悔い改めなければ、神との幸いな関係は恵みをいただく前よりもさらに遠ざけられてしまいます。この人が、その後どうなったか聖書は沈黙しています。そして、私たちに毅然とイエス様の側に立つ決断を迫っているのです。明確な回心と、明確な献身をもって十字架の主に従わせて下さいと求めましょう。