2016年9月25日・・・わたしだ。恐れることはない
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。
ヨハネ6:20〜21(14〜21)
「この箇所は、五千人の給食の奇蹟のすぐ後の出来事です。ここにも主イエス様の不思議な導きと神の子としての偉大な力があかしされています。
《主が王として築かれる神の国は、この世のものではありません(14〜15)》
「そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた」(15)。イエス様の奇蹟は、モーセが荒野でマナを降らせてイスラエルを養われた奇蹟に匹敵するものと思われました。そして群集は「この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」(参:申命18:15)と熱狂し、イエス様を王にしようと考えたのです。しかしイエス様は、絶好と見える機会を拒まれます。同じように感じていたろう弟子たちに命じて、向こう岸に渡らせ、ご自身で群集を解散させ、山に退いて祈られたのです。人々は、神の前に自分が正しくされる事より、自分に満足を与える指導者を求めていました。
「わたしの国は(罪に支配された)この世のものではありません」(18:36)。主が与えようとしておられるのは神の祝福です。罪と神は相容れません。神の国に入るには、罪を悔い改めて新しく生まれなければならないのです。
《主の命令に従った弟子たちは、困難に導かれました(16〜18)》
主が祈っておられた一方で、弟子たちは、向こう岸になかなかたどり着けなないで、苦しんでいました。主のおことばに従うことは最善の道です。しかしそれは平穏無事な日・・・々を約束はしていません。かえって、苦難を通して訓練が与えられます。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)。主が愛する弟子を訓練されのは、平安な義の実(神との正しい祝された関係を築く)ためです。どんな時にも神を愛し信頼する信仰を与えるためなのです(ヘブル12:11)。試練を与えられる事は、主に愛されている証拠であり、また主が訓練して豊かに用いようとしておられる証拠です。
《主はどんなに離れても困難でも弟子たちを守り助けられます(19〜21)》
先の嵐を沈める奇蹟(マタイ8:23〜27他)では、イエス様は同船していて寝ておられました。今回はイエス様は共におられませんでした。岸から4〜5km、湖は吹きまくる強風に荒れ始め、高い波が襲います。深夜過ぎでした。湖に嵐が起こり、弟子たちが苦しんでいます。しかし助けに向かおうしても舟はありません。あったとしても、、、しかし、主は湖を歩いて弟子たちのところに行かれました。主はどんな障がいをも乗り越え、私たちのそばに来て「恐れることはない」と語り、守って下さいます(6:37〜39)。