2016年10月2日・・・私にあるものを上げよう
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。使徒の働き3:6~7(1~10)
≪助けを必要とする人々が≫美しの門は、荘厳な神殿の中でもひときわ目を引く門であった。しかし、毎日・・・運ばれて置かれる乞食にとっては、癒しを願いに感謝しにくぐる門ではなく、僅かな施しを稼ぐだけの場所に過ぎなかった。身体の不自由さは、彼の生活全体を拘束していた。だが、足に不自由はなくとも、自分の境遇や環境に打ちのめされ、立ち上がる気力を失って座り込む者は少なくない。私たちは、周囲を羨んで自己憐憫に浸り、世を恨み、人の助けを当てにしてはいないか。「キリストの名によって歩む」ことがなければ、私たちは自己をしっかりと保ち、正しく問題に取り組み、周囲に積極的に働きかけて前進を図るという主体的な生き方は出来ない。
≪私たちが有するもので≫ペテロたちは、その乞食の男に施しを求められた。以前の彼らにはそのような同情や憐みは見られない。悪霊追放を禁じたり、幼児を邪魔だと叱り、盲人を追い払い、娘の救いを懇願する母親を迷惑がった(ルカ9:49、18:15、39、マタイ15:23)。しかし、復活の主の救いに与った彼らは今、足を止め、悲惨な境遇と不幸な人生に深い同情と関心を持って目を注ぎ、「私たちを見なさい。金銀はないが、私にあるもの、イエス・キリストの名によって歩きなさい。」と告げて、彼の右手を取って立たせた。今、私たちの教会もキリストを持つ。悔い改めるすべての罪を赦し、豊かな憐みに富む全能のキリストと聖霊を、私たちの教会は与えられている。その恵みを確認し、大胆に必要とする者に証しし伝えよう。
≪神を賛美する者に≫生まれて以来40年もの間、一度も歩けなかった男は、ペテロに一銭の施しももらえなかったが、癒された喜びの前ではどうでもよかった。彼は家に帰ったのでもなければ、馬鹿にしていた仲間の所に見返してやろうと出かけたのでもない。跳ねたり跳んだりして、ペテロたちと一緒に、神への感謝と賛美を奉げるために神殿に向かった。その彼の証しの行動は、多くの人々に「この人の身に起こったことに驚き、あきれた(我を忘れるほどに驚いた)」(10節)という衝撃を与えた。彼の飛び跳ねる姿は、初代教会の大きな勝利を示したのである。