2016年10月9日・・・わたしがいのちのパンです
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
ヨハネ6:35(22〜35)
五千人の給食のしるしの後、なお留まってイエス様を探す人々がいました。弟子たちがイエス様を残して舟で向こう岸に渡っており、同行されなかったイエス様見つけられません。そこに、湖の南方のテベリヤから数隻の小舟が来たので、群集は同船して、カペナウムに行き、イエス様を探します。彼らはイエス様を見つけ出して尋ねます。質問に答えて、イエス様が語られた教えは、イエス様を信じ弟子として歩むために大変大切な教えでした。
《永遠のいのちに至るパンのために働きなさい(25〜27節)》
「主はいきなり彼らの真の必要が何であるかを指摘されます。彼らが主を探し求めているのは、霊的な事ではなく、この世のことでした。自分の欲望を満足させようとイエス様に求めても、イエス様は答えられません。そのような自己中心こそ罪であり、イエス様は罪を助長する事は望まれません。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」(27節)。私たちは主に何を求めているでしょうか。私たちが主に求めるべきなのは、主が私に与えようとしておられるものです。それこそが私の一番必要なものです。
《神が遣わしたキリストを信じることこそ神のわざです(28〜29節)》
「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と告げられた人々は「神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか」と尋ねます。これは、行いによる救いをずっと追い求めてきたユダヤ人たちの発想でした。彼らは「神のわざ」を行なえると自負していましたが、実は罪に支配されて行えませんでした。「神のわざ」を成しとげられたのは御子イエス様だけです(ヨハネ17:4)。人がなすべきわざはただ一つ、「神が遣わした者(=目の前におられる救い主)を信じること」です。
《真のパンは、天から下って世にいのちを与えるパンです(30〜33節)》
彼らは信じるために証拠を求めます。「しるしとして何を」示してくれますかと。かつて荒野で、モーセによって主はマナを与えてイスラエルを養われました。しかしマナは永遠のいのちをもたらす「天からのパン」ではありません。主は言われます、「しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります」と。
《イエス様こそ、天からのいのちのパンです(34〜35節)》
人々は「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」と求めます。先の奇蹟を思い浮かべたのでしょう。しかし主の答えは、違いました。冒頭の聖句の通りです。イエス様こそが、永遠のいのちをもたらすために来られた救い主です。永遠のいのちは、神と共に永遠に歩むいのちですから、神との和解が不可欠です。イエス様は、私たちの罪のために死なれ、人が神に近付く道になられまし。イエス様は永遠のいのちを持っておられます(1ヨハ1:4、ヨハ5:26)。主は、私たちが信仰によってこの方を「食する」(内に取り入れる)ことができるようご自身を差し出されました。