2016年10月23日・・・わたしは決して捨てない
父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。ヨハネ6:37(36〜51)
ヨハネ伝には、イエス様と人々とのやりとりが多く記されています。そこで気付くことは、ありのままに語られた事を人々が理解できなかった事です。聖書は人の理解を超えた神と神のみこころへと、私たちを導きます。理解のしにくさこそ、神のことばであるしるしです。まず、イエス様の語られたことばに耳を傾けましょう。
《父が与えられた者は主のもとに来ます(36〜39)》
イエス様は、群集に自分たちの欲を満たそうとするだけで、ご自身の許に来ていないと指摘されます。しかし、「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます」(37)、「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」(44)と告げられました。そして、ご自身に来る者を主は決して捨てず、失なわないと宣言されました。聖書は、恵みの選びの絶対性と、求めて信じる責任の両方を告げています。人はキリストが差し出された救いを信じて受け取る責任があり、拒んだ者は自分の罪の報いを受けます。一方信じた者は、恵みの救いを受け永遠のいのちを受けますが、それは神が愛して選んで下さった事ですから、決して失われません。
《主は、ご自身のもとに来る者を終りの日・・・によみがえらせます(40〜46)》
「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日・・・によみがえらせます」(40)。イエス様は、ご自身のもとに来て、ご自身を信じる者に約束されました。「永遠のいのち」、死ぬべき人間が、神と共にいつまでも生きるようにされます。「終わりの日によみがえらせる」、信仰の祖先たちは「約束の地」(天の故郷)を与えられると約束されていましたが、それを見ないままに死にました。しかし真実な神は、彼らを終わりの日によみがえらせ、約束の神の国を相続させてくださいます。イエス様が、その人たちを「よみがえらせる」と宣言されました。
《主を信じる者は永遠のいのちを持ちます(47〜51)》
イエス様は、再度明確に語られます。「信じる者は永遠のいのちを持ちます」(47)、「わたしはいのちのパンです」(48)。理解できるできないかではなく、信じようとするかしないかの問題です。「それを食べると死ぬことがない」(50)。「食べる」とは「体に取り入れるいのちを養う」こと、主はご自身を信じる事は、ご自身を取り入れる事だと教えられました。聖書には、みことばや巻物を食べるという表現が繰り返し出てきました。さらに神のことばである御子が、信じる事によって私たちの内に生きて下さり、死ぬべき私たちを生かすのです。御子のことばを、ユダヤ人たちは本気にせずつぶやきました。しかしイエス様は、ご自身がいのちのパンであることを何度も繰り返し語られました。理解のむずかしい私たちにも、主は忍耐をもって繰り返し福音を伝えて下さっています。聖書は、神と世界と救いについて、掛け値なしに語っています。私たちは、神様の約束をそのまま信じて受け、自分を委ねて従いましょう。それで十分なのです。