2016年10月30日・・・主のほか誰のところに行けましょう
すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。ヨハネ6:68(52-71)
イエス様は、ご自身が「天から下って来たまことのパン」であると何度も語られました。しかし群集や弟子たちは、仲々信じられないでいました。聖書のメッセージを仲々信じられない時、イエス様はどう答えられたでしょうか。
《主はそれでも、みことばを繰り返されました(52-59》
ユダヤ人たちは、主のことばに対して「どのようにしてその肉を与えて食べさせることができるのか」と論じ合いました。人間の経験と知識で測ろうとする態度を崩さなかったのです。御使いの知らせに対する、信じなかったザカリヤと信じて身を委ねたマリヤの反応を思い起こしましょう。イエス様のことば、聖書の預言や約束は、私たちの理解を超えたものです。主はみことばを繰り返す事で、彼らの疑問に答えられました(53-58節)。人の理解を超えた聖書のことばを信じられるようにするのは、人の説明ではなく、みことばの力自体です。みことばに人を信仰に導く力があります。そして信じて始めて、それが真理である事を知るのです。
《私たちもみことばを聞き続ける事です(60-64)》
弟子たちの多くが、主のこのことばを聞いて非難し去ってしまいます(60節)。主は、弟子たちに、「このことであなたがたはつまずくのか」と問われます。「いのちを与えるのは(主が送られる)御霊」(63)です。また主が語られたことばは、「霊であり、いのち」であり、まさに主ご自身と同じ権威と力を持っています。今私たちに与えられている聖霊と聖書のことばがそうです。信仰をもって受けとめる時、霊でありいのちであるみことばが、その通りに働きます。信じる所で、主はその信仰の通りに働かれました。同様に、聖書のみことばは、信じ受け入れる時に、そのことばの通りに実現させます。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(1コリント1:18)。主は、私たちの魂の状態をご存知で今なお、私たちが悔い改められるよう語り続けておられます。
《そして主の許に留まりましょう(65-70)》
「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」中で、主は、十二弟子に「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」(67節)と問われました。ペテロは、冒頭の聖句のように答えます。仲間の弟子たちが離れ行こうが、イエス様は、生ける「いのちのことば」、神が遣わされた御子、主キリストでした。十二弟子には、すばらしい財産がありました。イエス様といつも共にいて、イエス様を傍で知ることができた経験です。主に近づく程、共に歩む程に、測り知れない権威と聖さをもっておられる事を彼らは知りました(1ヨハネ1:1)。主は「わたしがあなたがたを選んだのではありませんか」と励ますと同時に、「そのうちのひとりは悪魔です」と警告されました。イエス様と衣食住を共にしてもそれだけでは守りの保証はありません。大切なのは、主のみことばのうちに留まり、みことばに従う事です。