2016年11月13日・・・キリストはどこから来られたか
わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」ヨハネ7:29(25-36)
この箇所は、「キリストはどこから来たか」「それをどう確かめられるか」という大切な点について主が語られたことばを記しています。イエス・キリストが「神のもとから来られた、神のひとり子」であると信じる事が、救いに必要です。はたしてその通りであるか主の教えを通して、共に確かめましょう。
《人として来られた神を彼らは受け入れられないでいました(25-27)》
人々は、支配者がキリストに対して無力であった事実に気付きました。「議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか?」と考える者たちも出てきます。彼らは、イエス様がガリラヤ出身で大工の息子として育たれた事は知っていました。「キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ」(27)という知識も正しかったのです。イエス様が、聖霊によってみごもった処女から生まれた事は、当事者しか知らず、神の御子がどのようにして人となられたかは、想像だにできませんでした。神のご計画は、人の思いを遥かに越えています。信じて救われるために、まず神が示して下さらなければならないのです。
《主は「あなたがたは、わたしをも、わたしがどこから来たかも知っている」と宣言されます(28-29)》
どうしてそう言えたのでしょう。父なる神と主ご自身が、あかししておられたからです。また、御子のなされた権威ある教えと、全能のみわざがこの方が主から遣わされた救い主である事を、明白に示しました。ニコデモはこう語りました。「神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません」(3:2)。私たちが神を知る事ができるのも主が示されたからです。しかし示された救いをいただく信仰が必要です。この信仰を通して、人は初めて「正しく知り、行なう事が」可能となります。聖書は「信仰から出ていないことは、みな罪です」(ローマ14-23)と告げます。
《主は拒む人たちに「見つけることも、来ることもできない」と告げます(30-36)》
支配者たちはなおも信じる事を拒みました。そして「イエスを捕えようとして、役人たちを遣わし」ます。一方「主のわざを見て信じた人たちもいました(31)。見ずに信じる信仰は目標ですが、初めはそれでいいのです(14:11)。「そこでイエスは言われた。『まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます」(33)。主はこのように十字架の救いとその後の計画を、よりはっきりと示して行かれます。まだ使徒たちでさえこの教えを理解できませんでした。しかし後に彼らは主が語られた通りに、なされた事を理解します。一方、自分の権力や誇りを守ろうとやっきになっていた支配者たちは、どんなに知識があっても、信仰をもって求めようとしないため、その知恵を力は役立ちませんでした。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)