2016年11月20日・・・私たちには希望がある
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。ロマ5:3~5
《私たちには神の支えがある》
人には限界があり、あきらめると失望も多い。だが、神には万事が可能だ。主イエスも「どんなことでも、神にはできるのです」(マルコ10:27)と言われた。罪深く不信仰な私たちにも、助けを求める者に神は助け手くださる(ロマ5:6~8)。私たちも、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。私たちすべてのために、ご自分の御子をされ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子と一緒にすべてのものを、私たちに恵んで下さらないことがありましょう。」(ロマ8:31,32)と宣言したパウロに同意し、全能の助け主の神に感謝して助けを願う。
《万事は私たちのため起こる》
万事を司る神が味方だとすれば、私たちの経験するすべては、私たちのための神が考慮された上で起こることだ。神の手をすり抜けて私たちに降りかかる問題はない。神の許し無しに私たちを苦しめる事態は起こらない。問題に遭遇すれば不安に駆られ苦しむが、「見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)との約束がある。インマヌエルの神の助けがあるのだから、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから」(詩23:4)と言える。神は、私たちに必要な勇気と知恵、力と助けとを与えてくださる。
《私たちは絶望することがない》
私たちは、天国への約束だけでなく、この世を生き抜くに必要な助けが保障されている(ロマ5:3)。患難は厄介で苦しみを与える邪魔物ではない。信仰者を育成の大事な役割があり、その苦難の脱出の道も準備されているので、自己憐憫に溺れず、希望を失わない(Ⅰコリント10:13)。神は、私たちが遭遇している問題を好転させることは勿論、死者を生かすことも必要ならば出来る方だ(エゼキエル37:5、6)。このような神に愛されている私たちには、主のために苦しんでも絶望しない(Ⅱコリント4:8~12)。
《私たちは希望をもって万事を喜ぶ》
信仰者は希望の民だ。神は、私たちを喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださる(ロマ15:13)。信仰生活は、決して干からびて生気を失ったような人生を私たちに強いるものではない。神は、ダイナミックな喜びと平安と、どんなことにも屈しない希望を私たちに与え、福音に生かされる者の素晴らしさを世に証しさせる。信仰に生きることは、希望に生きることだ(ヘブル11:1)。私たちは現状だけをすべてとは決めつけない。暗い不安な将来にもあきらめず、神の言葉と助けを信じて将来に計画や希望を描くことが出来る(へブル11:7、イザヤ8:17)。