2016年12月4日・・・わたしもあなたを、罪に定めない
彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
ヨハネ8:11(1〜11)
ユダヤ指導者たちは、主を陥れようとまたも介入します。しかし主はこの機会をも捉えて、ご自身の権威を証しされました。ここにイエス様の赦しの豊かさと確かさが証しされています。
《彼らは、姦淫の場で捕らえられた女性を前に主にさばきを求めます(1-6)》
指導者たちは、姦淫を犯した者は石打の刑と記す律法を盾に、どうさばくかと問い詰めます(申命22:22-24)。それは、ただキ告発する理由を得るためでした。「石打にしなさい」と言えば人々を失望させ、「石打にしてはならない」と言えば、律法違反だと訴えることができると彼らは考えました。イエス様は、指で地面に書きつつ沈黙され、非難をじっと耐えられました。彼らが非難する程に不純な訴えである事が明らかになりました。私たちは、ユダヤ指導者たちと同じ過ちを犯してはなりません。まず自分が神と聖書に従うべきです。欲望を果たしたり行ないを正当化するためにみことばを利用してはなりません。
《イエス様は、どんな人もさばく権威がないことを明らかにされました(7-9)》
主は身を起こして口を開かれます。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と。彼らは、「そう言うあなたは何者か、自分に罪はないと主張するのか」と問い返すことができませんでした。「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された」、それは、すべての人が主の前に罪人である事の証しでした。主を恐れ主のさばきにしたがってこそ、人は初めて正しいさばきができます。イエス様こそさばく権威のあるお方です(8:15-16)。
《主は姦淫の女性を赦されました(10-11)》
彼女を訴えた者たちはいなくなっていました。主は、「わたしもあなたを罪に定めない」と赦しを与えられました。主の赦しは、他の人がさばかないのとは大きく違います。主はさばく権威を持っておられ、彼女は罪を犯したのに、赦されたのです。やがて主が成し遂げられる十字架の贖いの故でした。そして「今からは決して罪を犯してはなりません」と、悔い改めを促されます。彼女は、罪から解放されて生きる生涯を始めたでしょう。私たちも彼女と同じ立場です。律法に照らすならば、すべての人が罪人です(ロマ1:18,3:19)。主はまず、十字架で赦しを宣言されました。だからこそ、私たちも勇気をいただいて、悔い改めることができるのです。すべての罪を赦されて、新しい歩みを始める、これがキリストの救いです。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」(ルカ5:32)。