2016年12月18日・・・真理はあなたがたを自由にします
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネ8:31-32(31-46)
「多くの者がイエスを信じた(30)」時、主は、信じた彼らが、何を理解したのか何を信じたのかを吟味されます。主ご自身が「弟子、信者」と認める者となるためには何が必要か、この箇所は明らかにします。
《主のみことばに留まってこそ本当の弟子(31-36)》
キリストのことばに留まるとは、「忘れず、聞き続け、従って歩み、結びつく事」です。主のみことばは、罪をあばき出し、神の高い要求を突き付けま、それは不愉快で辛い事です。しかし自分の罪の闇を明るみに出されるのを恐れて、主の前から離れてはなりません。そして留まるなら、唯一の「道、真理、いのち(14:6)」である主イエス様を知ります。そしてこの方が、すべての人を捕えて不幸と絶望に陥れる罪と死から解放し、永遠のいのちと神の栄光に至る真の自由を、私たちに下さるのです。しかしユダヤ人たちは拒みます。彼らは、律法があるので罪の奴隷ではないと主張しましたが、実際は、高ぶり、虐げ、無慈悲に支配されていました。みことばの教師と自負しながら、目の前の約束の救い主を拒んでいました。イエス様によって罪から解放されない限り、真の自由はありません。《主を愛してこそ本当の弟子(37-42)》
ユダヤ人は、信仰の父アブラハムの子孫でした。しかし彼らはアブラハムの祝福を実現するために来られた約束の子孫・イエス様を「殺そうとしていた」のです。主は彼らに「アブラハムの子孫なら、アブラハムの行ないをしなさい」と命じられます。アブラハムは主の使いを心から迎え、ひれ伏して拝しました(創世記18:2)。彼らのたましいの父は、アブラハムではなく、イエスを御子と知りながら殺そうとする悪魔でした。彼らは「私たちは、不品行によって生まれた者ではない」と、処女マリヤからイエス様を、姦淫の子とさげすみます。御父をあかししている主を拒みならが、「神を知っている」と主張します。イエス様は指摘されます、「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです」。私たちは、御子を心から愛しているでしょうか。《主のことばに聞き従ってこそ本当の弟子(43-47)》
ユダヤ人たちは、自分たちの罪を指摘する主を憎みました。彼らは主に罪がないことを認めながら、なお信じようとしません。彼らの、主への憎しみと不正直な、不当な敵意は、常軌を逸していました。悪魔に支配され、自分でなく悪魔の欲望を成し遂げようとしていました。彼らは、「真の自由」を知らないまま、自分たちは自由だと主張していたのです。キリストを拒む事は、神の最も大切なみこころを拒む事です。神は私たちをみこころに立ち返らせようとあらゆる所で立ちはだかります。自由を感じられるわけがありません。みことばに留まり主を呼び求めましょう。主は救おうと待っておられます。自由は、「正しく判断して実現できる力」です。