2017年1月15日・・・生まれつきの盲人のいやし
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。ヨハネ9:3(1-12)9章は、生まれつきの盲人をいやして信仰に導かれた事を詳しく記しています。まず彼が目をいやされた時の事を見てゆきましょう。
《障がいが与えられたのは、神のわざが現われるためです(1-3)》
主は生まれつきの盲人を見られた時、弟子たちは尋ねます。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」(2)。障がいが罪の結果もたらされたという一般の考えでした。この偏見が、本人や家族の苦しみを倍増させていたのは今日・・・も変わっていません。イエス様は「この人や両親の罪のせいでない。神のわざがこの人に現われるため」だとはっきり教えられました(3)。試練を通して主は栄光をあらわされ、苦しみを通して主は私たちを救いと完成に導かれるのです。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩119:71、ローマ5:3-4)。《盲人の目を開くことで救い主の預言を成就されました(4-7)》
主は、つばきで泥を作り、盲人の目に塗って「行ってシロアムの池で洗いなさい」と言われました。彼はこの方がイエスという名である事しか判かりませんでしたが、信じてシロアムの池に行って洗いました。その時に、彼の目はいやされたのです。主は、闇から光へと私たちを導かれる「世の光」です(8:12,9:5)。神を知らない罪人の霊の目を開き、神を見、神の視点で見ることができるように生まれ変わらせて下さいます。彼を通して、主は秘かに栄光をあらわされました。生まれつきの盲人の目を開く事は、旧約の時代には起こった事がなく、救い主(メシヤ)の証拠として預言されていました(詩146:8、イザ42:6-7)。
《これが本物の神のみわざであることが明らかにされました(8-12)》
彼を知っている人々は、シロアムの池で目を開かれた彼を見て驚きました。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか」(8)。見えている事は間違いありません。似ている別人なのでしょうか、、、「私がその人です」と彼は証言します。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか」、「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」。「その人はどこにいるのですか」、「私は知りません」。イエス様は、ご自身をあらわしませんでしたが、確かに神のみわざがなされました。私たちが頂く主の救いや助けも同じです。この盲人のように、私たちはイエス様の姿が見えず、ことばを聖書によって読むか聞くだけです。そのみことばを信じて、従った結果救いを受け、また主の助けや導きをいただきます。そして、私たちの変化に、周囲は驚くでしょう。私たちは、聖書の教えをただ信じ従っただけです。、と答えるしかありません。イエス様はどこですか?と問われても答えられません。しかし聖書のみことばを信じればイエス様を見つけることができます。