2017年1月22日・・・いやされた盲人の証言
神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。ヨハネ9:31(13-34)
指導者たちは、目を開かれた男の人やその両親を尋問し、イエス様を認めない自分たちの立場を守ろうとします。神様はこの出来事を通して、何を示しておられるでしょうか。
《明白な奇蹟に戸惑う指導者たち(13-17)》
指導者たちは、目をあけたのがイエス様である事を否定したいと、何度も尋問します。「その人は神から出たのではない。安息日・・・を守らないからだ」、「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう」と彼らの内に分裂が起こりました(16)。イエス様は安息日を破っていませんでした。指導者たちは聖書の戒めを自分勝手に変えていて、違反だと主張しただけす。またイエス様は人類のために安息日を定められた主なる神です。安息日に主が働いて人々に祝福を与える事はふさわしい事でした。この事実を認めて、彼らもイエス様の権威に服さなければならなかったのです。しかし、人となり、身を低くして仕える主を、彼らは尊びませんでした(イザ53:3)。
《否定できない確かな奇蹟(18-26)》
だれもこの人が見える事を否定はできません。そこで、盲目に生まれついたというのは嘘だと主張して、イエス様の奇蹟を否定しようと彼の両親を尋問します。「ユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めて」おり(22)、二人は恐れていました。実の息子が生まれつき盲目であった事は、否定できない事実です。どのようにいやされたかについては、「知りません、息子に聞いてください」としか言えませんでした。彼らは再度、盲目であった人を呼び出して尋ねます、「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」(24)。神に栄光を帰すためには、何より正直である必要があるのに、彼らは真実を否定します。しかし彼の確信「私は盲目であったのに、今は見えるということです」は揺るぎません。
《みこころを行なうなら、神はその人の言う事を聞いてくださる(27-34)》
彼は、自分の体験を正直に語っているだけでした。追求し続ける指導者たちに彼は、「なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか」(27)と問い返します。彼らは、正直に証言するこの人を、罪人として断罪して排除します。イエス様が神の権威をもって語り、神のわざを成し続けておられる事実を否定できないので「知らない」と言い、知らないから罪人だと決めつけています。理に合わない事です。男の人は、決定的な公理を語ります。「神は罪人の言う事はお聞きにならない。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださる」。指導者たちが、信じられないのは、理解できないからでなく、認める事を拒んでいるからです。とうとう彼は、指導者たちから追放されました(34)。しかし主は彼を見捨てられません。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」のです(箴言29:25)。