2017年1月29日・・・その方を信じることができますように
イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」ヨハネ9:35-36(35-41)
イエス様は盲目に生まれた人を見られ、その理由を「神のわざがこの人に現われるためです」と語られ、彼の目を開かれます。自分が受けた神のみわざを証しした彼は指導者たちから追放されます。主は彼の信仰を通して栄光をあらわされました。
《彼を見つけ出し、信仰の目を開いて下さいました(35-38)》
主の働きは、目のいやしで終わりませんでした。御子・救い主は、罪からの救い・永遠のいのちの祝福の約束を成就するために来られたのです。見える様々の奇蹟は、救い主の預言を成就するためと、人々の必要を満たすためでした。イエス様は、救い主を信じるかと問われ(35)、彼は信仰の求めのことばで答えます(36)。何と謙遜で、熱心な答えでしょうか!イエス様がご自身が救い主だとあかしされると、彼は信じて主を礼拝しました(38)。「『主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる』のです」ロマ10:13)。
《主のさばきは、人の真実を明らかにするさばきです(39)》
主は世に来られたのは、「見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる」ためだと教えられます。自分は見えないと自覚した者は、神を求めて、救いをいただき、霊の目を開かれ神を知るようになり、自分は見えると高ぶる者は、神の救いを拒むために、霊的に盲目とされるのです。主は、すべての人をさばく権威を父から与えられました。主のさばきは、罪人を救うために、罪に支配された「人の真実の姿」を明らかにします。それは、救われる必要を示し、救いの恵みを確信させるためです。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(3:17-18)。そして、終りの日・・・には、同じ主が、人の行ないを明らかにしてさばき報いられます。
《高ぶりは、霊の目を盲目にしてしまいます(40-41)》
その時イエス様とともにいたパリサイ人がいました。彼らは敵対する仲間とは違い、主の奇蹟は神が共におられる証拠と考えた人たちでした。しかしまだイエス様を信じてはいません。彼らは「私たちも盲目なのですのか」と問いかけます。彼らは神を求め続けていましたし、祖先アブラハムに与えられた約束を信じていました。救い主が来られる預言を信じており、律法を守る者だと自負していました。主は、盲目であったなら罪はなかった、自分は見えると言い張るなら罪が残る、と告げます。主は、見えない事を責められません。「見えません」と主の前に告白すれば、主はいやして見えるようにして下さいます。実際、多くの取税人・罪人と言われた人たち、遊女や取税人たちがイエス様を信じていやされ、主を信じました。自分の霊的盲目を認めない指導者たちは、キリストの救いを拒んだので、罪の盲目の中に留まっていました。私たちは、主の前に自分の欠けを認めて、進み出ましょう(1ヨハ1:9-10)