2017年2月5日・・・わたしは良い牧者です
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
ヨハネ10:11(1-18)
イエス様は、パリサイ人たちに「あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」と告げられました。戒めを守ろうと努力してきた者たちにとって心外な答えです。そこで主は、この羊飼いの譬えを通して、ご自身こそがイスラエルの牧者であることをあかしされました。
《第一に、羊は真の牧者の声を知って従います(1-6)》
羊の囲いの門(羊の門)から入らないで、他の所を乗り越えて来る者は「盗人で強盗」、羊を喰い物にします。「その羊の牧者」は門から入り、門番は彼のためには門を開きます。「羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」(4)。他の人の声には従いません。主は、ユダヤ人にとっては大変親しい光景をもとに、神の羊である人々の状況を教えられました。パリサイ人達は、指導者また教師と自負していましたが、羊飼いの働きをしていませんでした。民に重荷を負わせ、従わない者を断罪し見捨ててきたのです(ルカ11:46,52)。主が指摘されても悔い改められない彼らの霊的盲目でした。
《第二に、主は羊の門です(:7-9)》
羊の門とは、羊の囲いの出入口で、そこに、羊飼いの番人がいて、不審者や猛獣が入って来ないように守っています。門の中は安全です。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます」(9)。主は、神の羊が平安にを得ることができる羊の門です。そこを通って羊は、平安を受けることができます。また主は、神の羊が(まことの)いのちに至る羊の門、神のもとに行ける羊の門です。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(14:6)。羊の門であるキリストを通って神のもとに行くのです。
《第三に、主はよい牧者です(10-18)》
主は続いて、雇い人である牧者と、良い牧者(真の牧者)の違いを明らかにされました。雇い人の牧者は羊を守りません。収入と自分の安全が、羊よりも大切です。しかし良い牧者は、いのちをかけて羊を守ります。良い牧者であるイエス様は、ご自分の羊を知っています。数百、数千、万・・・いくら数が多くても、主は一人一人のことを気にかけておられ、間違うことがないのです。主は、いのちを捨てるほどに羊を愛しておられます冒頭の11節のことばは、十字架の予告につながって行きます。イエス様は、私たちを罪から救い出して守るために、ご自身のいのちを犠牲にされました。そうしなければ、私たちを贖う事ができなかったからです。そしてさらに多くの羊を御自身の元に導き、一つにされます。ユダヤ人だけでなく、アブラハムへの約束の通りに、すべての国民を神の祝福(永遠のいのち)にあずからせるためです。主は、困難に耐えて私たちを守り、救いを完成してくださいます。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。・・・」(ロマ8:32-、詩篇23篇)。