2017年2月19日・・・知るために信じなさい
しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」ヨハネ10:38(31-42)
イエス様は、ご自分を殺そうと向かってくる人たちに対して、愛と忍耐をもって救いをあかしされました。ここには、私たちが信仰に進むか、不信仰に留まるかの「分かれ目」が明らかにされています。
《彼らが主を拒んだのは、主の真実な証言を拒んだからです(31-33)》
悔い改める機会を主は何度も与えて下さったのに、彼らは聞こうとしません。主は彼らを受け止め問いかけます。「どのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか」(32)。彼らは答えます。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。・・・あなたは人間でありながら、自分を神とするからです」(33)。しかし、イエス様は人が神になるのではなく、神が人となられたのです(ピリピ2:6-7)。私たちが、信仰にる救いと、不信仰によるさばきを分けるのは、イエス様を良い人と認めるかでなく、この方が唯一の創造主である神と信じるかどうかです。
《彼らは、まず聖書に聞くべきでした(34-36)》
イエス様は、旧約聖書の詩篇(82:6)を引いて答えられます。「聖書は廃棄されるものではないから、『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか」(35-36)。この詩篇は、自分を神の子だと誇る支配者たちへの主の語りかけです。主のさばきは、彼らが普通の人のように空しく死んでしまうことでした。聖書は告げています、主にさばきを委ねなさいと。彼らは、間も無く主を十字架にかけます。しかし主が約束された通りに、「神はこのイエスをよみがえらせました」。
《理解できなくても神のなさる事実を否定してはなりません(37-38)》
主は、「もしわたしが父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい」(:37)と、彼らに言われました。もし私たちが、神ご自身に対して誤った理解をしてしていたら、神は必ず正して下さるはずです。主は旧約時代に、神を信じない王を通しても、ご自身のさばきをなされました。神はすべての事を支配し、ご自身の計画のために用いられます。信じられない彼らでも、神がイエス様を通して働かれるなら、神が示して下さる事神が正しく導いて下さる事を信頼すれば良かったのです。
《ヨルダンの人々は、すなおに受け入れて信じました(39-42)》
主はヨルダンに退かれます。そこはバプテスマのヨハネが宣教し、人々にバプテスマを授けた地です。「多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、『ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。』と言った」(41)。大切なのは、めざましい業を行なうかではなく、ヨハネのように真実をあかしすることです。殉教したヨハネの証しは、なお豊かに用いられました。ヨルダンの人々は、素直な心を持ってみことばに耳を傾け、主のなさるみわざに見て、信じました。主に信頼し従おうとする信仰こそが、救いにいたる信仰を頂く道です。