2017年4月2日・・・エルサレム入城と人々の反応
初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。ヨハネ12:16(9-19)
十字架の前の主の初めの日・・・、イエス様は群集の歓喜の中、ロバの子に乗ってエルサレムに入城します。使徒は「この出来事を、弟子たち、また反対者が、どう受け止めたか」をあかしします。
《大勢の群集がイエス様を信じ歓迎しました(9-11)》
過越の祭りのために都に上る時期でした。ラザロのよみがえりの話を聞いて、イエス様やラザロを見ようと大勢の人の群れがベタニヤにやってきました。イエス様は、父のわざを行なうみこころの時が来たことを知り、恐れずにエルサレム、そして十字架に向かおうとしていました。一方、支配者たちは、群集の熱狂を知り、イエス殺そうと相談します(11)。ラザロの復活によって、これまで反対していたユダヤ人たちの多くがイエス様を信じるようになったことに、指導者たちは危機感を深めていました。
《主はロバの子に乗って入城し、預言を成就されました(14-16)》
祭りに来ていた人々は、しゅろの枝をもってイエス様を迎える準備をしました。ホサナ(祝福あれ)、主の御名によって来られる方に、イスラエルの王にと、賛美の声が響き渡ります。主は、ロバの子に乗って平和の王としてエルサレムに凱旋されました。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」(ゼカリヤ9:9)。この預言の成就である事を弟子たちは後で知ります。神のみことばの預言は、それが起こるまで、聖書に記されていて良く分かっているつもりでも、それとすぐには判らない事が多いのです。聖書の教えで判らない事ぴんと来ない事があっても、がっかりしないで、それを心に留めるようにしましょう。いつか、思い出して、この時のためだったと御名を崇める時が来ます。それまでみことばを蓄えましょう。
《群集のイエス様を歓迎する心はその場限りのものでした(17-19)》
ラザロの復活は見違う事のない救い主のしるしでした。しかし群集のイエス様への信仰は、奇蹟を見、また大勢が信じたからという、日・・・和見な信仰にすぎなかったのです。主は彼らにご自身を任せず、残りわずかの時を、弟子たちへの最後の教えに用いられます。一方支配者たちは、「公然と非道な方法」でイエス様を殺そうと画策します。明白な証拠をいくら示しても、かえって信じない理由を作り出して信じようとしません。これが罪に支配されてる者の心です。また奇蹟は信仰に入るために用いられますが、その感動は長続きせず、困難にしぼんでしまうのです。私たちは困難があっても失われない確かな信仰をめざしましょう。主と主のみことばこそ確かな信仰の土台です(1ペテ1:23、2ペテ1:19)。