2017年4月9日・・・一粒の麦となられた主
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。ヨハネ12:24(20-26)
イエス様が、十字架にかかられる日・・・があと4日に迫った時、異邦人達がイエス様に会う事を求めてきました。そして弟子ピリポを「先生」と呼んで取り次ぎを頼み、アンデレといっしょにイエス様に伝えました。主の語られた答えに注目しましょう。
《主は「ご自身が栄光を受ける時が来た」と宣言されました(23)》
十字架の贖いをもって主の栄光ある救いを成し遂げる時が、いよいよ到来しました。時が満ち、異邦人にも主の福音が広がる時が来たことのしるしでした。十字架は神の栄光です(28)。罪によって神の栄光はそこなわれました。神の栄光のために創造された人類が、堕落して神の栄光をあらわせなくなってしまったからです。しかし主は見捨てず忍耐し、約束の通り、この上もない犠牲をもって人類を罪から解放され神の栄光を現わす者とされます。御子のいのちという最も尊い犠牲を払っての回復です。《主は、十字架の道に従っていのちを得、神の報いを得るように招かれました》
主の死は多くの実を結びます(24)。十字架の死によって、罪の赦しがもたらされ、永遠のいのちが多くの人にもたらされます(10:10-11)。罪に死んだ私たち(エペソ2:1-2)は、キリストのいのちが捨てられて初めて、生きることができるようになるのです(エペソ2:4-6)。キリストの死は、永遠のいのちに至ります。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」(25)。これまでも何度も教えて来られたこの戒めを、主は改めて弟子たち、ギリシャ人たちに語られました。「自分のいのち」のいのちは、自分の意思や願いの実現を求めるいのちです。道を外れた願いや欲が第一になっている限り、神と共に歩めず、神を失い一切を失うことになります。しかし自分中心の思いを捨てて、主のみこころを第一にする者は、いのちを生かし「永遠のいのち」に至るのです。永遠のいのちとは、永遠に生きておられる神と共に生き、歩む事です。その道は永遠に続き、天国に至ります(エペソ1:3、マタイ6:33)。