2017年5月7日・・・証拠を見ても信じないのは
主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。ヨハネ12:40(36-43)
イエス様は、群集と話された後、「光があるうちに光を信じなさい」と招かれた後、群集から身を隠されました。彼らが信じなかったからです(:37)。大勢のユダヤ人が今でもイエス様を救い主だと信じないでいます。どうしてでしょうか。
《多くの者が信じなかった事も、神のご計画の中にありました(36-38)》
彼らが信じないため救われないのは、神が彼らを救う事ができないのではありません(イザヤ59:1)。信じるべき証拠は示されていました。それでもなお信じませんでした。信じる事を拒んでいたからです。しかし聖書は、それが預言者イザヤの書が成就するためであったと記しています(:38)。主は、約束の救い主が来られても、頑なな彼らは信じようとしない事を、あらかじめ知っておられました。主がイスラエルがたくなになるのを許されたのは、「救いが異邦人に及ぶため」でした(ロマ11:11)。私たちは、神を拒んだとしても、神と関係なくなるわけではない。神を否定する事は、自分の土台を否定して自分を惨めにするだけです。私たちが拒んでも神の計画は完成します。しかし拒み続けたら折角主が用意された救いに与れないのです。
《主の栄光は、人の心のうちにあるものを明らかにします(39-40)》
イザヤは、イエス様の栄光を見て、このように預言したと福音書は記しています(40-41)。栄光とは:内にある(良い)ものが現される事です。神の聖さ、愛、知恵、力がキリストによって現わされました。ご自身を見た者は「父を見たのです」とイエス様は証しされました。そして、神の栄光があらわされる時、人の心も明らかにされます。主の栄光を見た時、イザヤは「もうだめだ」と絶望する程自分の汚れを知ります。一方ユダヤ人たちは、心を頑なにしてイエス様を殺そうとしました。不信仰と信仰の差が、神の栄光の前にはっきりされるのです。私たちは神に近づき神の栄光を見なければなりません。もし自分が不信仰なら、生きているうちに悔い改めて救われるために。そして信じているなら、その信仰をますます確かなものにするためにです。
《神はさばきの中にもあわれみを注いで、信じる者を起こされました(42-43)》
イエス様を殺そうとしていた指導者たちの中にも、信じる者がいました。ユダヤ人の指導者ニコデモは、夜中にイエス様を尋ね「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません」と教えていただきました(3:3)。有力な議員のアリマタヤのヨセフは、「イエスの弟子になって」いました(マタイ27:57)。これは神のあわれみです。主は残りの民を、どんな不信仰の時代にも残してこられました(1列19:18)。彼らの信仰はまだ人を恐れる信仰でした。しかしキリストの十字架によって毅然とした信仰へと強められてきました。からし種の信仰が実を結んだのです。ヨセフは、思い切ってキリストの遺体の下げ渡しを総督に願い、ニコデモとともに、イエス様の遺体を新しい墓に葬りました。神は不信仰な時代でも「主の民」を残しておられ、どんなに弱い信仰も、岩のように確かな信仰へと成長させてくださるのです。