2017年5月28日・・・洗足・極みまで愛して下さった主
さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。ヨハネ13:1(1-15)イエス様が、弟子たちとの最後の晩餐を囲んだ時に、自らしもべとなられて弟子たちの足を洗われた事は、大変有名な出来事です。主が弟子たちの足を洗われたことについて聖書は、「愛を残ることなく示された」と告げています。どうしてでしょうか。
《主は、小さな行ないの中に最高の愛を表わしてくださいました(:1-5)》
十字架の贖いを成し遂げて、父のもとに帰る時が来たこと、また父がご自身に一切をまかせられた事を主は知られました。イスカリオテのユダの裏切り、支配者たちの陰謀もご存じでした。それでも一切を支配する主がまず成された事は、御自身のものに対する愛を、彼らの汚れた足を洗って示すことでした。主は、十字架においても、洗足においても、偉大なみわざにおいても、小さな心遺いにおいても、弟子たちの必要を満たす為に、仕えてくださいました。大きい行為が、偉大な愛の現れというわけではありません。最初のしるしは、水をぶどう酒に変えた奇蹟は、つつましやかでした。大切なのは、事の大きさではなく、愛の心をもって日・・・々仕える事です。《主は身を低くして仕える事で、愛を表わしてくださいました(:6-8)》
主は、御自身の立場を捨てて仕えてくださいました。そのことが、足を洗う事に典型的に現れています。師であり主であるイエス様が、弟子たちに仕えて足を洗われましました。神の御子は、天の位を捨て、私たちと同じになるどころかしもべとなって仕え、罪の赦しのためにご自身のいのちを十字架で犠牲にされて、私たちを救ってくださったのです(ピリピ2:6-8)。御自身の奉仕を躊躇して拒むペテロに、主は「わたしが足を洗わなければ、あなたはわたしとなんの関係もない」と言われましました。主の犠牲を拒むなら、人は罪に汚れたままに留まります。主の恵みを拒んで、自分の努力によってきよく正しくなろうとするならば、主を拒む事になってしまうのです。私たちのなすべき事は主を信じ信頼して、自分を委ねて従うだけです。《主は、まず御自身が先に私たちを愛してくださいました(:9-15)》
主が洗われた時、弟子たちはその意味さえ理解できないでいました。弟子たちが「後から分かるようになる」と知らせて、まず仕えてくださいました。主は、彼らが理解できなくていても、救いのわざを成し続けて下さいました。救いは、神から始まる一方的な恵みです。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました」(ローマ5:6)。主は、同じように互いに愛を洗うよう教えられました。もちろん主を信じて救われ弟子とされる事が第一です。そして弟子とされた者は、主に従えるようにされています。イエス様に倣って、まず自分が低くなって愛を持って仕える。互いに仕える事を通して、私たちは、主を証しする事ができます。