2017年7月2日・・・父なる神の招き
ハレルヤ・バプテスト教会副牧師:谷井涙賀
ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。ルカ15:20(:11~32)
「放蕩息子」の例え話に登場する弟は罪人を、兄はユダヤ宗教指導者を、そして父親は神を指しています。今朝は、この大変有名な例えから、「悔いのない人生」を歩むために、私たち一人ひとりにも父なる神の招きがあることを見ていきましょう。
《第一に、父のもとに帰るように招かれています》
父親が絶大な権威を持つ1世紀の中東社会において、弟息子の行動は本来なら決して許されません。それでも、自分の分の財産を手にした弟は、自由と快楽を求めて遠い国に旅立ちます。ところが、直ぐに無一文になり、困窮と悲惨、苦悩と死の現実に直面します。もし今、父なる神のもとから離れ、自分勝手に生きているなら、この弟息子と同じ状態にあるのです(ローマ1:21、3:23)。苦しみの中、「父のもとへ帰ろう」と決断した息子に対して、父は自ら走り寄って彼を抱きしめ、口づけし、寛大の限りを尽くしました(20~24節)。ここに父なる神の完全な愛を見出すことができます。神の究極の愛は、すべての罪人の身代わりとなられたキリストの十字架に現されています(1ヨハネ4:10、ローマ5:8)。悔いのない人生は、神の愛の賜物であるキリストを信じて父なる神のもとに帰ることからはじまるのです。神は、今もあなたを招いておられます。
《第二に、父の愛に気づくように招かれています》
弟息子は回心して、父なる神の愛の懐に飛び込みました。一方この例えに登場する兄は、弟の無事の生還を喜ぶどころか、弟に対する父の寛大な行動に憤慨しました。心は冷め、憎しみとプライドの塊でした。これは神が嫌われる姿です。人のプライドこそ、神の前に最大の罪なのです(詩篇34:18、1ペテロ5:5−7)。彼は父のもとにいながら、父の愛に全く気付かずにいました。彼のプライドが父の愛から彼を遠ざけていました。また兄は、自分は弟のようなだめな人間ではないと自らの正しさを主張しました(28~30節)。人を裁き、自己の義を主張するところに神の愛はありません。それでも父は、寛容な心で兄に語りかけ、祝いの席へと招かれました。誰でも、ただ神の恵みによって受け入れていただけるのです。父なる神は、今朝も私たちが神の愛に気づき、互いに愛し合い赦し合うように招いておられます(1ヨハネ4:12)。
《第三に、父の愛に応答するように招かれています》
この例え話の結末は記されていません。父は完全な愛を弟に対しても、兄に対しても示してくださいました。反逆、自己中心、そして放蕩の末、帰って来た息子を抱きしめ完全に受け入れました。プライドの塊であった兄を責め立てることなく、優しく語りかけご自分の愛の大きさを示しました。私たちはこの例えの弟、兄のどちらかに当てはまるのです。どちらにしても、父の愛を必要としています。父のもとに憩いと安らぎがあります。キリストの十字架に示された父の愛に応答し、父なる神と幸いに生きる人生に招かれていることを覚えて、今より一歩踏み出しましょう(ヨハネ3:16、2コリント5:17)。