2017年7月23日・・・イエス様はぶどうの木
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
ヨハネ15:4(1-8)
15章から十字架前の告別のメッセージの後半の始まりです。主はぶとうの木の譬えを通して、実を結ぶためご自身に留まるようを教えられます。
《農夫である父なる神は、多くの実を結ぶように働かれます(1-2)》
イエス様はぶどうの木、父なる神は農夫、聖徒たちはぶどうの枝だと主は譬えられました。農夫がより多くの実を結ぶために世話をします。ご自身の枝(聖徒)で実を結ばない枝は父が取り除くと主は教えられました。教会の中にまだイエス様を信じないで神様といのちが結びついていない人たちがいます。そのままですと神のいのちの働きがないので実を結べません。しかしイエス様を信じる者は永遠のいのちを持っており(3:16)、そのいのちが実を結ばせます。また、農夫は「もっと多く実を結ぶために、刈り込み」ます。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」などの御霊の実を結ぶのを妨げる自分勝手な思いや考え、習慣、係わりなどを主は除かれます。それは痛い事でもありますが、必要な事です(ヘブ12:11、ヤコ1:2-4)。
《聖徒は、実を結ぶために、キリストに留まらなければなりません(3-4)》
枝は幹に支えられ、幹を通して養分を受けてて実を結びます。同様に聖徒はイエス様に支えられ、いのちに満たされてこそ実を結びます。だから、本当に救われて、新しく生まれ、主のものとされていなければなりません。救いの条件は明白です。神の御子イエス・キリストが私の罪のために十字架で死なれ、三日・・・目によみがえられた事を信じ告白することです(ローマ10:9-10、1コリ15:3-5)。キリストの十字架と復活を信じて人は救われます。救われてキリストの弟子となったからこそバプテスマを受けて教会に加わる事ができるのです。弟子とは師であるキリストに従う者です。
《実を結ぶ事によって、私たちは神の栄光を現わすことができます(5-8)》
私たちはどのように実を結ぶのでしょう。私たちが御子イエス様に留まる時、聖書のことばが、私たちに留まります。みことばが心に留まる時、みことばが、私たちをその約束のとおりに守り、成長させます。神のみことばは、神のみこころにかなうように私たちを造り変えます(2テモ3:16-17)。また、私たちが御心にかなうようになる時、私たちの求めるものは何でもかなえられます。それを主も弟子達もあかししています(14:13-、15:16,16:23、1ヨハ5:14)。こうして、主が父のみこころを行って父の栄光を表わされたように(17:4)、私たちも神のみこころを行って栄光を現わします。「栄光」とは、すばらしさがあらわれること、私たちが神のすばらしさを知り神を喜び感謝しほめたたえることです。実を結ぶために必要なものは、キリストが備えてくださいます。私たちに必要なのは、キリストに留まり続けることです。私たちが実を結ばせるのではなく、キリストが実を結ばせてくださるのです。