2017年10月8日・・・父のみこころに従い、自ら捕えられる主
そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」ヨハネ18:11(1-11)
この18章から、いよいよ主のお働きの中心である受難が証しされています。この箇所は、イエス様が捕えられる所です。そこにも神の御計画と支配があった事を共に確かめましょう。
《人々はユダに引き入られて主を捕えようとしました(1-3)》
主は告別の説教の後、大祭司として祈られ、市中の東、エルサレムとオリーブ山の間にある谷間に下られました。これまでも弟子たちと集まったゲッセマネの園に行かれ「みこころの通りをなさって下さい」と祈られました(マタ26:39)。祈りの後主は、弟子たちに宣言されました。「見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです」(マタ26:45)。主を裏切ったユダが、捕り手に主を引き渡すために手引きして来ました。一隊の兵士、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人が武装し、平和の君を武力で捕えようとしたのです。自分たちの地位や誇りのために、神の御子、唯一の救い主さえ排除しようとする罪の姿です。主はこの人々のためにも死のうとしておられました。
《敵は主の権威の前に打ち倒されました(4-7)》
主はご自身に起こる事をご存じで、捕えられる時にもすべてを支配しておられました。敵の前にあえて留まられ、ご自身を売ったユダがいっしょに立つのを許し、捕えようとする者たちに「だれを捜すのか」と問われました。「ナザレ人イエスを」と答える彼らに「それはわたしです」と宣言されました。このことばに彼らは打ち倒されます。それは、イスラエルの神が「わたしはある」とご自身の名前を宣言されたのと同じことばでした(出3:14)。主の権威の前に、彼らは地に倒れました。この方は人の姿を取っておられても、イスラエルの神である創造主であられました(ピリ2:6-8,コロ1:15-18)。
《父の命令に従い、主はご自身を捕える者に渡されました(8-11)》
主は、この権威あるみことばで捕える者たちを制し、弟子たちを去らせるよう命じられました(8)。これもまた、みことばであるご自身の宣言が成就するためであり、そのみことばはすべて、父から与えられたものでした(12:49,14:10)。主は、ご自身の弟子を決して失なう事はありません(6:37)。主を信じる私たちも同じように守られます(1ペテ:5)。主は、聖書を成就するため自らを捕える者に渡されました。それはあらかじめ告げられた通りでした(マタ16:21,20:18。弟子たちはそれを受け入れられず抵抗します。ペテロは大祭司のしもべに打ちかかり、彼の耳を切り落してしまいました。しかし主は彼を制ししもべの耳を直されました(ルカ22:51)。こうして主は、彼らにご自身を渡された。弟子たちは主が予告された通り、逃げてしまいます(マタ26:56)。しかし、イエス様は志半ばで挫折されたのではありません。聖書の預言の通りに、父の御計画の通りに救い主の使命を着実に成し遂げておられたのです。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」(10:18)。