2017年12月3日・・・主に示され復活を信じた弟子たち
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」ヨハネ20:29(19-31)死に勝利してよみがえられた主は、マグダラのマリヤに現われた後、弟子たちにも姿を現して下さいます。ここにも、復活の主の豊かな励ましが証されています。
《主は弟子たちのところに現われ平安をもたらされました(19-20)》
復活の知らせを受け止められず、恐れ隠れていた弟子たちのところに、主の方から現われ声を掛けて下さいました。そして「平安があるように」と繰り返し告げられました。主のみことばは、虚しく地に落ちず、世が与えるのとは違う「神の平安」が、弟子たちに与えられました(14:27,16:33)。私たちも、主に祈るとき、そしてみことばを読むときに、神様の不思議な平安に満たされるのです(ピリ4:6-7)。主は、御手や脇腹の傷を示し、御自身が約束のとおり人類の罪のために死に、よみがえられたことを示されました。主は今もその傷をとどめて示し、御自身の死の意味を知って信じ、罪から救われて欲しいと願っておられます。《主は、弟子達を改めて召し派遣されました(21-23)》
「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(21)。弟子たちは、自分たちはもう、主の弟子として立って行けないと、失望していたでしょう。しかし主は彼らの信仰の回復を祈り告げっておられました。そして召しと約束をもう一度示し、思い起こさせました。失敗によっても救いと召しは変わりません。主の救いは、十字架の死によって無くならず、かえって確立したのです。また「聖霊を受けなさい」(23)と主は告げられました。主を証しするための助け手である聖霊の約束が、間もなく成就しようとしていました(参14:16,16:7)。さらに、神の国の鍵を委ねられた事を再確認されました(23、参:マタ16:19)。主が弟子たちに現れて下さったのが、この時だけでなく何度もであったことを、聖書は証しています。主は御自身の弟子たちが、守られ立ち上がることができるために、何度も御自身から働きかけて下さいます。私たちにもです(ロマ11:29、1テモ2:13)。《イエス様は、見捨てることなく導いて下さいます(24-27)》
どこまでも真面目な性格の弟子トマスは、証拠を自分で見て確かめなければ信じることができないと主張し、他の弟子たちの証を受け入れませんでした(:25)。信じたいと願いつつ信じる亊ができなかったこの弟子に、主はもう一度現われて信じられるように導いて下さいました。主は、彼の発言した要求の通り、ご自身の手や脇腹を差し出し、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と招きました。彼は、主に「私の主。私の神」と告白し、主は彼の告白を受け入れて下さいました。みことばの証しと聖霊の導きで信じてこそ、揺がない信仰の土台です。記者ヨハネはここで、この福音書、そして聖書全体が何のために書かれたかを証しします(28-31)。それは、イエス様が「神の御子、キリストである」と信じるため、そしてその信仰を通して、イエス様の御名(権威と働き、約束)によって、(永遠の)いのちを得るためです。