2018年7月8日・・・「霊の熱中症」石居義生
それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。ヨハネ19:28(28-30)、マタイ26:36-41
イエス様が十字架で亡くなられる直前に「わたしは渇く」と言われました。この短い言葉にはどのような意味があるのか、共に考えて行きましょう。
《イエス様の渇き(ヨハネ19:28-30)》
私たち人間の祖先アダムの最初の違反以来、私たちは肉体と霊の呪われた死に定められてしまいました。そして堕落し罪と凄惨な状態、すなわち神と人間との関係は断絶されてしまいました。しかし、神は私たちを一方的に憐れんで下さり、神のひとり子であるイエス様を私たちの身代わりとして裁き、私たちの罪を赦し、救いの状態に引き入れてくださろうと計画されました(ロマ5:21)。そしてイエス様が降誕されてから、私たちの罪の贖いのための十字架と、救いの復活までの過程は預言として聖書に記されたのです。神であり、人であるイエス様はその数々の予言をひとつひとつ成就され、全人類の罪の身代わりに、十字架に付けられ、神との断絶の時、死の瞬間が訪れようとしていたのです。そして十字架の預言が完了したその時、イエス様は「わたしは渇く」とおっしゃられました。(19:28)これは生理的な喉の渇きでなく(19:29)、復活の前に迎えなくてはならない十字架の呪いの死、神との断絶に対するイエス様の戦慄、恐怖、すなわち霊的な渇きのことばであったのです(マタイ26:38-39)。
《気付かない渇き(ロマ7:18-20)》
イエス様はゲッセマネで愛する弟子のペテロとヤコブを連れて祈り初め私たちの罪を悲しまれます。神との断絶を間近にして、霊の渇きを覚えるイエス様は、その戦慄のあまりもだえ苦しみ始めます。イエス様の愛する二人の弟子は「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と言われたにも関わらず眠りに落ちてしまい、そこに私たちの弱さを見るのです(マタイ26:37-40)。しかし、私たちの霊的な存在は神との交わりなしにはありえません。神との断絶は私たちの永遠の死を意味するものです。私たち人間は様々な誘惑に対して弱いだけでなく、イエス様がこれほどまでに感ずる霊の渇き、神との断絶の戦慄を、イエス様の側にいても感ずることもできないのです。霊の渇きは、あたかも真夏の炎天下、脱水症で倒れるまで喉の渇きに気付くことがない熱中症の様です。
《渇かないいのちの水》
イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と高らかに宣言されます。イエス様の犠牲と復活を信じる者には、神の子とされる御霊の恵みを頂き、神との関係を回復されるのです。神との関係回復を感謝し、イエス様を通してもっと大胆に神との交わりを求めることです。イエス様から御霊の水を飲む者は渇くことがなく、永遠のいのちの約束を得るのです。