2018年9月2日・・・神の安息はまだ残っている
こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。ヘブル4:1
聖書での安息は、休息を越えて、「平和・感謝・喜びの完成した状態」つまり「救い」を指しています。この箇所は、神の安息はまだ残っていると告げ、そこに入り損なうことがないように励ましています。そのためにどうしたら良いでしょうか。
《救いに与るため、主を恐れる心を持ちましょう(1-3a)》
神を恐れるとは、恐怖する意味でなく、大切にし・愛し・敬うという意味です。主が偉大なお方、真実・恵み・忍耐に富んで私たちを愛して下さることを覚えて、主に最善を尽くしましょう。神の安息=救いは、今なお、私たちすべてに差し出されています。信じた者は安息に入るが、信じない者はに入れない、と主は言われました。主に救いを求める者を、主は必ず救って下さいます(ローマ10:13)。ですから、こう祈りましょう。「神様。私にあなたを恐れる心を与えて下さい。あなたを信じる信仰を確かにして下さい」と。
《主が用意された救いに、信仰をもって与りましょう(3b-9)》
聖書は、主が世界を創造された、すべてを成し遂げたと告げます(創1:31)。救いの安息についても、主はその時に造られ整えられました。民のために安息の祝福が用意されていたのです。不信仰なイスラエルへの審きは、後の人々が不信仰にならないための、戒めでした。主は、改めて審きの宣告の日・・・を定めて、私たちに、イスラエルの民のように不信仰に陥らないようにしなさい、と戒め、呼び掛けられました。やがてイスラエルの民は、ヨシュアに率いられて、約束の地に入りましたが、そこには戦いがあり最終的な安息ではありませんでした。救いの日は今日です(2コリント6:2)。その日は、御子が十字架と復活によって救いを成し遂げられた時から始まっています。主は十字架の贖いを成し遂げた時「完了した」と宣言されました(ヨハネ19:30)。そして私たちがキリストの救いの福音を聞く時が、救いの日、救いの時であり、救いのことばに応じるならば、その時に救いに与ります。この救いの日を先延ばしにしないように、終わりの審きの時が来ます。そして恐らくそれより前に、各自の生涯が尽きる日が来ます(ヨハネ12:35-36)。
《主は支え報いて下さるから、最後まで忠実に歩みましょう(10-13)》
主が創造の後に休まれたように、信仰によって救われた人は、自分の生涯の働きを終えて、主のもとで休み、復活を待っています。クリスチャン生涯は、労苦と戦いの連続です。しかし主が共にくびきを負って支えて下り、労苦は無駄となりません(1コリ15:58)。聖書のみことばが、内外に起こる信仰の戦いを戦い抜かせ、勝利させてくれます。聖書によって、私たちは心や生き方を深い所から点検し、正しく強められ、いやされるのです。また聖書によって、私たちは、主のみこころを知り、正しい判断をすることができます。地上では、悪が見逃されたり、善が報いられない事もある。しかし、終わりの日・・・に主がはすべてを明らかにして、報いて下さいます(マラキ3:18)。