2018年9月30日・・・主は私の愛と労苦を忘れない
神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。ヘブル6:10(4-12)
堕落してしまう恐しさの警告、信仰に留まるようにとの励ましが続いている箇所です。恐れと希望のはざまの中で、私たちの進む道を確かめましょう。
《祝福にあずからせるための警告(4-6)》
4-8節は、背教に対する厳しい警告です。この厳しいことばの意図は、キリスト以外に救いはない事を知り、キリストとその約束に堅く留まるように導くためでした。確かに救いの導きをいただきながら、イエス様を捨てて堕落してしまう事は恐しい事です。自分を見つめて、試練と誘惑の中でも大丈夫と言える人はいません。私たちが大丈夫と言えるのは、主イエス様が御自身のところに来た者を決して見捨てない、失わない、と約束して下さったからです(ヨハネ6:37,39)。主は、試練も懲らしめも与えられます。しかしそれは私たちを損うためでなく、御自身の聖さにあずからせるためです。試練の時には、ますます主に頼りましょう。また私たち自身は、互いに真実に語って、信頼を確かにしましょう。
《救いの導きを拒んではならない(7-8)》
救いの恵みは、私たちに福音を信じる自由を与えます。主の導きがなかったらどんなに努力しても信じる事はできません。それは、信じる事も拒むことも可能とする自由です。救いの光に照らされた時に、近づくか離れるかによって、私たちはさばかれます(ヨハネ3:17-20、マルコ16:16)。主は私たちが地上に生きている限り、救い、恵みと自由を与え続けます。そして、救いの恵みを受け入れるか拒むかで、心の性質が固まって行きます。心が堅くても、みことばを受け続けるなら柔らかな良い地へと変わり、みことばが芽を出し育ち結実します。しかし拒み続けるなら、世のわずらいがみことばを塞ぎ、試練を受けると簡単にみことばを捨て、やがて心に届きにくくなります。救いか滅びかはやがて結ぶ実によってはっきりします。
《主に信頼して前進せよ(9-12)》
信頼のうちに前進せよとの力強い激励のことばがあり、前の厳しい警告が、愛と信頼から語られた事が判ります。聖書は私たちに厳しく警告しますが、それは希望と慰めに満ちた神の救いに導き、成長させるためです。主は真実です。私たちの労苦や主への愛を覚えて忘れません。もちろん救いは人の善行のゆえではなく、キリストを信じる信仰を通して救い、賜物と恵みとして与えられるからです。主は、私たちの大きな罪を赦す事において、そして私たちの小さな愛と奉仕を喜び報いる事において豊かです。パリサイ人のように、行ないを誇り、主に報いを要求しようとして働く事はいけません。厳しい苦行として仕える事は、自分にも主にも重荷となるだけです。しかし信仰と希望によって仕える事で、奉仕は救いの完成をもたらします。神が許しておられるのですから、私たちは先に進みましょう。