2018年12月2日・・・良心を完全にする贖い
まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。ヘブル9:14(1-14)この箇所で聖書は、新旧の契約に基く「新旧の聖所」(人が神に向き合う場所)と私たちの良心との関係を説き明かしています。
《旧い契約では、聖所が二つに分かれていました(1-7)》
旧約の律法では、神が人と会う聖所として地上の幕屋や神殿が定められていました。旧約の聖所は二つに分かれていて手前の聖所には信仰の光を象徴する「燭台」と、主の養いを象徴する「机とパン」が置かれ、祭司はそこに入って犠牲を備え、とりなしました。その奥には「至聖所」があり、仕切りの幕の手前に祈りを象徴する香壇、中にイスラエルが神の民とされた事を証明する「契約の箱」がありました。至聖所には、年に一度だけ大祭司が入るだけでした。罪ある者にとって、神に近付く道はとても困難でした。《旧い契約では、聖所への道は隠されていました(1-10)》
祭司が犠牲を献げている間、民は聖所の外で祈るだけでした。主のもとに近付けるのは召された祭司だけでした(ルカ1:9-10)。旧い契約においては、神に近付く道が隠され、誰も神に近付けません。これは、どんなに犠牲を献げても、それは「礼拝する人の良心を完全することはできない」事を示しています。「良心」は、私たちを正しく導くためのものですが、罪によって良心が損なわれているため、人の良心は、罪を聖める事も正しい道に歩ませることも完全にはできなくなっています。熱心に聖書を読み続けても、多額の献身を献げても、熱心に奉仕しても、人の良心は不完全なままです。罪を克服できません(ガラテヤ3:10)。《新しい契約では、キリストが完全な聖所に入って罪を贖います(11-14)》
キリストは、天の完全な幕屋で永遠の贖いを成し遂げられました。キリストはただ一度の犠牲で、罪を完全に聖めて下さいました。イエス様が十字架の贖いを成し遂げられた時、天の聖所が開かれたしるしとして神殿の幕が裂けまし(マタイ27:50-51)。キリストにより、天の聖所はすべての人に開かれています。十字架を信じる者は、だれでも救われます(ローマ1:9)。救われた者はみな神の祭司とされ、人々を救いに導くために用いられます。罪は、神との結びつきやいのちを奪います。救われるにはいのちが回復することが必要です。十字架の救いは、提供者の犠牲による輸血や臓器移植が、いのちを救うのと似ています。聖書において「血はいのち」です。キリストは血を流して御自身のいのちを犠牲にし、その血を信じる私たちに注がれました。信じる者は聖いいのちをいただいて、いのちを回復するのです。キリストの犠牲は私たちの良心をもきよめ、良心の判断を主のみこころと一致させます。良心が罪や悪の誘惑に勝利し、正しく判断、実行できるようになるのです。こうして人を、誤った虚しい生き方から、神と人を幸いにし永遠の実を結ぶ生き方に変えます(1ヨハネ3:9,ヤコブ3:18)。