2019年1月6日・・・キリストの唯一完全な贖い
このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。ヘブル10:10(1-10)
ここには聖所全体の教えの要であるキリストの犠牲がもたらす「きよめ」の完全さが証しされています。共に確かめてゆきましょう。
《律法は完全なきよめを示す影です(1-4)》
律法(旧約聖書)は、その後にもたらされ完成する神の救いの影です。影である律法は、本物の救いの土台と必要性を示し、信じて受け入れるための備えとなります。世界が神の栄光のために造られた事をあかしし、それが損われている罪の支配を示します。人や世界の本来の姿と、それを取り戻す必要がある事を示します。また人がどんなに努力しても本来の姿に戻れない現実を伝え、神の約束された救い主待ち望ませます(ガラテヤ3:24-25)。しかし、影である律法はきよめには無力です。律法の犠牲は何度も献げ続けても、私たちを完全し主の前にきよい者として受け入れさせることはできません。
《キリストの十字架こそ神に受け入れられる犠牲です(5-7)》
詩篇40:6-8の預言を引用して証しします。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました」と、御子キリストが地上に来られる時に成される宣言を1000年も前に告げました。主がよろこばれる犠牲は、律法の命じる動物や穀物の犠牲ではありません。それらは、キリストの完全ないけにえの予表でした。主は御子に告げました、主は旧約の犠牲が予表する本物の犠牲を求めておられました。地上に来られた御子キリストは、聖書からご自身の犠牲こそ主のみこころである事を知って、ご自身のいのちとからだをささげる事を喜びとすると証ししました(ヨハネ6:38,マルコ10:45)。このキリストの犠牲こそ、主が求めておられたものです(イザヤ53:6,10-11)。
《キリストの犠牲は、ただ一度で罪を完全にきよめます(8-10)》
キリストは来られた時、律法を廃棄するためでなく成就するために来たと宣言しました。神の計画は、キリストの救いによって律法は求めている祝福を完成する事でした(マタイ5:17)。キリストは、ご自身の生涯と働きによって、律法が伝えた要求と約束(預言)を成就しました(ルカ24:44)。最終目標はキリストを信じる信仰による義だったのです(ガラテヤ2:16)。キリストのただ一度の犠牲によって、信じる私たちは完全にきよめられます(:10)。きよめる「聖なるものとされる」とは、神の前に完全にされるという事です。キリストと一心同体とされ、永遠の祝福の内に歩み、神の栄光を共に喜んであらわす者とされます。キリストのただ一度の犠牲にり、ただ神の恵みによって神の前に完全な者とされます。このきよめは信仰によって受け取るだけです。罪による一切の負債・罰・死(断絶)を、キリストが肩代りし、賠償し、その犠牲によって帳消しにして下さいました。そして復活した主キリストご自身が生きてとりなし、私たちを生かし、主に結びつけます。あらゆるのろいを拭い去って祝福で満たします(ヨハネ1:12-13)。