2019年1月13日・・・聖徒を完成する十字架
なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。ヘブル10:14(11-18)
この箇所にあるように、キリストは十字架によって聖徒を"永遠に完成した"と告げます。どういう事でしょうか。
《信じた者は永遠に完全に神の聖徒です(11-14)》
罪とは神との不調和です。しかしキリストは「ただ一度」の犠牲をささげただけです。「聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたから」です。「聖」とは神のものという意味です。聖徒を「完成した」とは、神のものであるという点において完全で、その立場を揺るがされないという事です。性質や行いの完全さについてではありません。クリスチャンは地上においては完成途中です。しかし、神のものとさせなくする罪や誤ちについては、キリストのただ一度の犠牲で解決しれおり、改めて犠牲をささげる必要はありません。主は、キリストを信じた者をご自身の家に子どもとして迎えました。子どもである立場は100%ですし、欠点や失敗があっても、追い出される事はありません(ヨハネ6:37)。
《キリストは主のみおしえを聖徒の心と思いに刻みつけました(15-16)》
記者はエレミヤの預言(31:33-34)を引用して、聖霊が証しする「新しい契約」の約束を告げます。一つは「律法を心に刻み付ける」事です。この預言がキリストの犠牲によって成就しました(ルカ22:20。この契約は恵みの契約(救い)です。罪の赦しのためにキリストは十字架で死なれ、赦しは神の恵みによってもたらされ、信じる者に与えられます。そして主は、信じる者をキリストのいのちに与らせ、律法(神のみこころを示すみおしえ)を私たちの心に刻みつけました(ガラテヤ2:20。こうして、みこころを行なう事を糧として生きるキリストの心を持つ者とされました(1コリント2:16)。そして神と共に生きる性質に生れ変わり、主い逆らって断絶する事ができない者とされました(1ヨハネ3:9)。
《主は私たちの罪と不法を完全に赦して、思い起こしません(17-17)》
もう一つの約束も成就しました。主は信じた者の不法を二度と思い出しません。記憶から消し去ったという事ではなく、持ち出して責めることは決してないという事です。過去・現在・未来のすべての罪をキリストが十字架の犠牲によって既に赦されているものとしているからです(ローマ8:1)。救われた者は地上においては、罪に支配された生まれつきの性質「肉」と、新しく生まれ主に結びついた性質「霊」の両方があります。肉のいのちについては、十字架によって死に渡され咎められません。そして霊が肉に勝利して完全に正しくなってゆきます。キリストが十字架の上で「完了した」と宣言されたのは(ヨハネ19:30)、罪の贖いのための犠牲を払い終わった事の宣言です。キリストの十字架は信じる者を、神のものとして完全にして下さるのです。