2019年2月17日・・・祝福をもたらすチャレンジ
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の【主】は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。
マラキ3:10(6-18)
「経済管理のみこころについて」聖書の教えを共に確かめましょう。預言者マラキは、民の不信仰を正し、信仰を励ますために主のみことばを語ります。
《主は「わたしに返れ!と主は招きます(6-9)》
主は民に「わたしに帰れ」と呼びかけました。しかし彼らは「どのように帰ろうか」とつぶやきます。主は「あなたがたは神のものを盗んでいる、それは十分の一とささげものによってだ」と指摘します。聖書は当初から、収入の十分の一は神のものだから献げよと教え、イエス様もそれを忠実に行なうよう教えられました(申命12:11、マタイ23:23)。一切は神のものです。その神が私たちに、恵みの一部をささげるよう命じられました。私たちを祝福するためです。しかし彼らは、生活が苦しいからと、それを怠っていました。その状況を主は、「神のものを盗んでいる」「甚だしくのろわれている」と告げます。主を拒む事は、当人のみならず、民を祝福しようとする主にとっての大きな損失です。
《主は民をさばかず、かえって御自身を「ためしてみよ」と招きます(10)》
本来主を試みることは赦されない事です。しかし主は、献げてみよ、そうすれば、祝福が来ることをあなたがたは知る、と呼びかけました。収穫の喜びが満ち、諸国も彼らの幸いを認めるようになる、当然の義務を果すだけで祝福を約束されたのです。私たちはここに、神のへりくだりと愛を見ます。神のことばに従い、すなおに喜んで恵みを受けましょう。祝福は、有形無形に現われます。不思議な助けと、霊的祝福と喜びが与えられます。欲望から守られて正しく財を用い、献げた残りでかえって豊かにされます。十分の一以外の奉納物は、各自が決めた通り自由にささげるものです。これも主が「豊かに蒔く者は豊かに刈り取る」と約束しています(2コリント9:6-7)。
《主を恐れる者は、主に仕える幸いを知っています(13-18)》
民は自覚してませんでしたが、「主を信じ仕えても、人生に何の益もない」との考えこそが、主への固い拒絶でした。「神は自分の願いを叶えるべきだ」という頑固な考えは、高慢の罪です。聖書は主こそ第一であるべきだど明言しています(イザヤ43:7)。自分を第一にすべきと多くが考え生きる中で、主を第一に生きる者は、信仰の交わりに保たれて、平安と希望をいただいています。主を恐れる者は、主に覚えられており、終わりの日・・・に、主に仕える者と仕えない者の違いが明かになります。主は信じ仕える者を、「宝」とし「あわれむ」と約束しています。主に信頼しない者は苦しい現実を見て、神に不信を表明し、不幸だとつぶやきます。しかし、主に信頼するものは苦難の中でなお希望を確信して待ち望み、自分を幸いだと喜んで生き抜くのです(ローマ8:22-25)。