2019年3月17日・・・回心と喜びの両方を
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。ピリピ3:12(7-15)
キリストの救いは、ただ恵みにより、信じて受けるだけで与えられます。しかし、救いの内に生き生きを歩むためには「明確な回心」と「救いの喜び」が必要です。
《明確な回心の必要(7-9)》
パウロはキリストを信じて、価値観が全く変わりました。かつて彼は、行ないによって神に認められて祝されると信じて努力していました。しかし行ないによって義と認められる人は一人もいません。自分を誇る事で主を愛さず、特権意識は、隣人愛の命令違反です。彼は悔い改めました。方向転換(=回心)こそ悔い改めの中心です(ローマ12:2)。キリストを信じて、キリストが赦して救って下さる約束に身を任せる、これが信仰です(エペソ2:8,ローマ10:9-10)。地獄を免れるためにキリストを信じる事は、間違いではありません。しかしその恐れに基づいた決心は、自分可愛いさにもとづくものです。罪の本質である、自己中心は変わっていません。そこには安堵はあっても、感謝や喜びはありません。
《恵みの喜びの必要(10-12)》
パウロは獄中にあっても喜び、喜んで下さいと書き送りました。彼は、自分の不自由や苦しみを気にしません。恥じる事がなく証しし、生も死のどちらも益でした。願い、また喜んでいる事は「自分を通してキリストがあがめられること」でした。また彼の願いは、キリストを知り、キリストに似ていく事です(7,10-12)。十字架の犠牲は、復活によって喜びに変わりました。主は、迫害していた彼を、いのちを捨てる程に愛し、彼の罪を十字架で赦し、信じた時から共におられます。あこがれのキリストに似て行く事は、嬉しい事です。それは大変高い目標ですが、失望に終わることがありません。自分で努力して得ようとしたなら挫折したでしょうが、キリストが私を捉えて支えておられるので、大丈夫です。キリストの救いは、知れば知る程に驚くべき恵みです。
《救いは、回心と喜びの両輪で完成していきます(13-15)》
恵みの喜びだけで、回心がなかったら、救いの土台がなく迷ったままです。また、回心だけで喜びがなかったら、重荷になって挫折してしまいます。しかし、明確な回心と救いの喜びの両方がある時に、私たちは救いの正しい目標に向かって前進し続ける事ができます。「いつも喜んでいなさい」(4:4)、それは「いつもハッピーでいなさい」という意味ではありません。感情は不安定だからです。喜ぶとは、それを宝物として大切にし、そのすばらしさによっていつも安心し慰めをいただき神に常に感謝していることです。そして他のものに心を奪われる必要がない状態です。救いの確信をもって前進してくために、明確な悔い改めと神の恵みの喜びを主に求めて、いただきましょう。聖書によってそれを知り、聖書に従って、増々確かにしていただきましょう。