2019年3月31日・・・天の故郷をめざして
しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。ヘブル11:16(13-16)
ここに信仰者の生き方が証しされています。彼らは天の御国をめざし地上を寄留者として歩みました。祝された信仰の歩みの原則を共に確かめ指針としましょう。
《約束の御国を望んで生涯を全うしました》
いにしえの聖徒の模範であるアベル、エノク、ノア、アブラハム、彼らは「主は約束を必ず成就なさるとの確信によって」生きました。こうして彼らは「信仰による義」を受け継ぎました(:7)。そして死に際しても、神の約束のことばの成就を待ち望み、子孫もその信仰を受け継いでゆきました。彼らは、約束のものを手に入れることはありませんでしたが、後の人々に信仰を遺産として残したのです。そしてモーセ、ダビデ、預言者を通して救い主の預言が明らかにされ、キリストによって成就しました(マタ13:17)。キリストが来られて、神の国をもたらし、私たちは約束の神の国を得、私たちはキリストと共に完成を担っています。私たちも、まだ見ていない神の約束が必ず実現することを信じて生涯を全うするのです。
《御国を望み見て地上を寄留者として歩みました》
アブラハムへの約束は、この土地を「あなたと、あなたの子孫に与える」でした。彼はこの約束を、まだ息子が与えられていなくとも信じ続け、それが彼の義と認められます(創世15:6)。その信仰が、子孫に受け継がれました。アブラハム、イサク、ヤコブは、強くなり財産を得ても、人間的な方法で領地を得ようとせず、神の計画が成就するのを確信して待ちました。寄留者として歩む事によって、自分たちが寄留している場所は、帰るべき故郷ではないと表明しました。彼らは、地上の故郷でなく天の故郷をめざして生きたのです。この約束は、死者が復活し永遠のいのちをいただくことによって、共に生きてこそ、実現します、彼らは聖徒の復活を信じていたのです(マルコ12:26)。私たちも、天の故郷をめざすのです(ヨハネ14:2-3,ピリピ3:20)。
《主は彼らの神と呼ばれることを恥とせず天の都を彼らのために用意されました》
アブラハムは飢饉の避難先で妻を妹と偽り、子の誕生を待てずに妾を取りました。イサク夫婦は不和と御心への不服従があり、その子ヤコブは肉的な狡猾さで長年寄り道をしました。主はそんな彼らの神と呼ばれることを良しとしました。主は私たちをも生まれる前から愛して下さり、天の位を捨てて来られ私たちのために死ぬ事を恥とせず、十字架を忍ばれました。主は私たちを友と呼び、ご自身のいのちである福音を委ね、ご自身のからだである教会に器官として結びつけて下さいました。主は味方となり決して捨てません。主が恥とするのは主を否む事だけですが、ペテロがそうであったように、その罪をも赦して下さいました。十字架のゆえに。聖霊に逆らう罪(=救いを意図的に拒む罪)以外の「どんな罪」をも赦されます。主は私たちに真実を尽くされます(2テモテ2:13)。そして信仰に留まる者を、守り導き、栄冠を授けて下さいます(同4:7-8)。