2019年5月12日・・・神の民と共に苦しむ道を選んだ幸い
彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。
ヘブル11:26(23-27)
主の器モーセの信仰の証しを通して、何を第一に求めるべきか確かめましょう。
《息子モーセを匿った両親の信仰(23)》
エジプトに寄留したイスラエルの民は数と力を増し、恐れたファラオは彼らを労苦で苦しめ、生まれた男子をナイル川に投げ込むよう命じました(出1:22)。しかしモーセの両親は、王の命令を恐れずに、幼子を隠して育てました。隠し切れなくなった時、両親は、幼子を防水したカゴに入れてナイル川に流し、主の手に委ねました。ファラオの娘がそれを見つけ、ヘブル人の男児と知りながら自分の養子にしました。そばで見張っていた幼子の姉の機転で、両親はその子を乳離れするまで預かり、主の訓戒をもって育てる事ができるようになりました(出2:3-9)。こうしてモーセは、やがて主の民イスラエルのために立ち上がる土台を与えられます。大切なのは、親が確かな信仰に生きている事です。「その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています」(2テモテ1:5)。
《神の民と共に苦しむ道を選んだ(24-26)》
王子であったモーセは生活の心配なく、欲しいものを手にいれる事ができました。しかし自分がヘブル人である事を知った時から同胞の救いを願い、王子の立場を捨て「神の民とともに苦しむことを選び取」りました。彼は世のはかない楽しみよりも、神の民の解放と主の約束の成就のために用いられる喜びを、追い求めたのです。それは、十字架に向かうキリストが抱いた喜び(ピリピ2:6-11,ヘブル12:2)、パウロが抱いた喜びと同じでした(ピリピ3:7-14)。主は注げます、「神と富の両方を求める事はでません、自分の宝を天に蓄えなさい」と(マタイ6:19-21)。
《ファラオの怒りを恐れずにエジプト立ち去った(27)》
モーセは、エジプト人に打たれていた同胞を救おうと、打つエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めました。また翌日・・・、同胞が争っている時、「どうして自分の仲間を打つのか」と諌めましが、同胞は昨日の事を知っていると責めました(出2:11-15)。聖書は、彼がファラオに捕えられ殺されることを恐れて、エジプトを去ったのではなく「信仰によって・・・目に見えない方を見ているようにして、忍び通した」と告げます。彼は主がきっと同胞を救い、約束の地に導いて下さる、その時を待とうと、信仰によってエジトを立ち去ったのです。間もなく主は約束されたエジプト寄留400年めが来る(創世15:13-14)事を信じ、彼はミディアンに寄留して羊飼いとして過します。それが、やがて民をエジプトから導き出し、荒野を旅させるために役立ちます。また厳しい自然の中で、頑固な民を忍耐して導くための謙遜を学びました。私たちにも、失意の中で過さなければならない時があります。主は脱出の時、忍耐の時、立ち上がる時と計画を備えておられます(エレ29:11)。