2019年9月22日・・・キリストに従う礼拝
ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。ヘブル13:13(7-16)
この箇所では、救われた私たちが神に喜ばれるためにどのように歩んでゆくかを教えています。ユダヤ人に向けてた手紙ですが、教えの原則は文化共通です。共に主が私たちに求めている生き方を確かめましょう。
《変わらないキリストの教えに留まり従い続ける(7-9)》
福音を伝えた指導者の信仰かの実を見て、倣いなさいと勧めます。教会の指導者はみな模範として立てられています。すぐれているからではなく、罪深く弱いこの者をも主が愛し救い用いて下さっているというサンプルとしてです(1テモ1:15-16)。だれでもキリストを信じて従えば、主が同じように救い導き祝福して下さいます。「ならう」ことはコピーになることでなく、各自の個性を生かしつつ、学ぶべき所を受け継ぎ、さらに良いものと築くことです。聖書の教えもそうです(1ペテ1:25)。特に恵みにより信仰を通して救われると告げる福音を曲げてはなりません。食物や業の規定は救いに何の関わりもありません(エペソ2:8)。
《主が自分に与えられた教会で礼拝をささげよう(10-13)》
私たちクリスチャンには「一つの祭壇」(礼拝をささげる所)があります。それは救われた者がキリストを頭として各地に築かれた教会・キリストのからだです(1コリ6:19,ヨハネ4:21,23))。幕屋で仕える者たち、すなわちキリストを信じず旧い教えに留まる者たちは、この祭壇から「食べる」(礼拝の祝福にあずかる)権利がない、と聖書は告げます。キリストを信じて罪から救われて初めて、人は神に喜ばれる者として自身を神にささげることができます。キリストは御自身のからだを、旧約の犠牲が献げられる神殿ではなく、城壁の外にある十字架で御自身を献げました。キリストの犠牲は、旧約の預言の成就ではありますが、最終的な犠牲、新しい契約のためだったからです。私たちは、行ないによって義を追求する場所から出て、自分の十字架を負って(自分の一切を放棄し従わせて)(ルカ9:23,14:27)キリストに従います。
《救いの完成を待ち望み、共に賛美をささげ愛し合おう(14-16)》
救いの完成は地上の都の回復ではなく、天の都に至る道です。ユダヤ人は、国家の復興、ローマ支配からの独立をめざしていました。しかしキリストは、御自身の国は世のものではない、と教えられました(ヨハ18:36)。キリストを信じる私たちが待ち望み近づいているのは、天の都であり、それは必ず実現します(12:22-24)。私たちがなすべきことは、賛美を主にささげる事です(15)。罪の赦し、義と認められるための犠牲(代価)は既に、キリストがただ一度の犠牲で成し遂げました(9:12)。感謝をもって賛美し、自分を神に喜ばれる生きたささげものとして主にささげる、これこそ主に喜ばれるいけにえです(ロマ12:1-2)。キリストを主と信じ救われて、主を喜ばせる幸いな歩みを歩ませていただきましょう(1コリ15:58)。