2019年10月27日・・・だれがわたしにさわったのか
イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」マルコ5:30(21-43)
イエス様は、ヤイロの娘のよみがえらせる途中で、長血の女性をいやされました。イエス・キリストがどのように私たちを導かれるかを確かめましょう。
《キリストはわたしたちのすべてを知っておられる方》
イエス様がカペナウムに戻った時、会堂司のヤイロが御許にひれ伏し、重病の娘を助けてほしいとひれ伏して願いました。家に向かう途中、群集にまぎれて12年長血で苦しむ女性が、信じて主の衣に秘かに触れて癒されました。イエス様はそれに気付いて立ち止まり、「だれがわたしの衣にさわったのか」と見回しました。神であるイエス様は、すべてをご存じの上で、彼女が赦しと恵み内に幸いな歩みを踏み出すように導いて下さったのです。人類が罪を犯して隠れた時に、主は「あなたはどこにいるのか」と呼びかけ、人類を正しいさばきに服させ、救いの計画の内に再出発できるよう導かれました。私たちも、すべてをご存じの主の前に、進み出ましょう。その時、救いの恵みの導きが始まります。
《キリストは惜しみなく、とがめることなく与えられる方》
彼女は、長血に汚れた自分がイエス様に触れてしまった事で咎められることを覚悟してすべてを告白しました。しかしイエス様は咎めることなく「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」とやさしく送り出しました。私たちも、自分のような者は救いを受けるのにふさわしくないと恐れを感じ、十字架の前に進み出ることをためらう経験をしたことがあるでしょう。しかしイエス様は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」と言われました(マルコ2:17)。主は、求める人には誰にでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださるお方です(1テモテ1:15)。罪人であると自覚するならば、ひと時も躊躇することなくイエス様の衣に手を伸ばしてすがりましょう。
《キリストは死んだ者をも生かす方》
ちょうどその時、ヤイロのもとに「娘は亡くなった」との知らせが届き、彼は望みを断たれました。しかしイエス様は「恐れないで、ただ信じていなさい」と言い、また「その子は死んだのではありません。眠っているのです」と告げました。これに対して「人々はイエスをあざ笑った」とあります。死を克服することなど有り得ない、あきらめるしかない、というのが人類共通の経験であり認識です。しかしイエス・キリストは、よみがえり、いのちであり、死者を生かすお方です(ヨハネ11:25-26)。そして主の御力が現わされるかは、この方を信じる事にかかっています。主は、「恐れないで、ただ信じていなさい」とヤイロに告げ、12歳の娘を生き返らせました。聖書は彼の信仰の告白を記してはいません。主は、彼の不十分な信仰にもあわれみをもって答えて下さいました。主のなさる事は人の想像を超えています(1コリント2:29、1コリント1:18)。私たちに必要なことは「ただ信じる」こと、それだけです。(高木正勝)